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西島大介さん「ヤング・アライブ・イン・ラブ 完全版」インタビュー 「異常な日常」でフィクションが果たす役割とは

文:ハコオトコ 画像は西島大介「ヤング・アライブ・イン・ラブ 完全版」より

3・11直後のボーイ・ミーツ・ガール

――3・11の直後に連載が始まったこの『ヤング・アライブ・イン・ラブ』。3基の「巨大湯沸かし器」が設置されている、東京の架空の街を舞台にした作品です。大昔からあると言われ、街の人も気にしない湯沸かし器で爆発事故が発生。主人公の男子高校生は全く騒がない周囲に違和感を感じる一方、「この街には呪いがかかっている」などと言いだす“メンヘラ”少女と恋に落ちる……。湯沸かし器は原発そのものですが、主人公は大人や社会の言うことが本当に正しいのか、これが科学的な問題なのかオカルトなのも分からなくなる中、事故による街の破滅と彼女との恋愛模様に巻き込まれていきます。思春期の男女のボーイ・ミーツ・ガールを下敷きにしつつ3・11直後の混乱を描いた本作ですが、当時の執筆のきっかけは何だったのでしょうか?

 本作はヤングジャンプ(集英社)系の月刊誌で連載していた作品でした。僕は現在広島に暮らしているくらいで、3・11後の原発事故はすごくシリアスに受け止めていました。途方に暮れるタイミングもあったし、どういう作品を作家として作ったらいいのか、そもそも作品は今必要とされているのか。作品の中で考えてみようと思ったのです。

――湯沸かし器から漏れているのは放射線ではないのか、それとも霊の仕業なのか、国や企業の言っていることは信じていいのか……。特に未成年の主人公カップルの目線で描かれているので、彼らの原発に対する情報の錯綜ぶりは凄まじいですね。

 連載が始まったのは本当に震災の直後で、政治的な対立など大人の議論が白熱していました。ただ、漫画などフィクションの本来の役目であるところの「詰まらない日常、もやもやをすっ飛ばす」という側面で(原発問題を)面白く、破滅的に描いている人はあまりいなかった。

――本作の単行本では、実際の小学生からの「原発飽きた」というコメントが掲載されていたのが印象的でした。

 当時はうちの娘も小学生でしたが、3・11について大人の目線で考えるのと、子どもの目線とは違うんですね。親は報道を逐一見て悩むが、子どもは一言「原発飽きた」と言ったりする。そんな話を家でするな、つまらないと。それを見たとき、「僕が子どもだったら(原発に対して)どう思うか」と考えました。娘を含めたティーンエイジャー向けに、爽やかなエンタメとして描き切りたいなと。

 ただ、本作は真面目に原発問題を考えている人には「ふざけすぎだ」と敬遠されていたとも思います。現実と向き合いたくて漫画を読んでる人からは、半端によく分からない陰謀論や聞きかじりの情報ばかりで、ますます混乱したかもしれない。

 一方で、この原発問題の正解を出すのは、早い段階では難しいだろうなとも当時、思っていました。みんなが正しいと思える結論をすぐ出すのは不可能だなと。そこで(世論の)対立関係をそのまま描くしかなかった。

 主人公の真は科学を信じて、放射能による汚染量を調べる。逆に女の子の方はスピリチュアルしか信じていない。真は「そこの公園は危ないから違うところでデートしよう」と言いますが、彼女は「何か霊がいるので別の場所に行こう」と言い出す。

 2人はお互いを理解していないけれども、ケンカしながらも一緒に行動しているわけです。それくらいしか、(3・11後の混乱時に)できることは無かったんじゃないかなと。

――彼らの無知や妄信は、原発騒動が落ち着いた今からすれば一見愚かですが、原発後に右往左往していた当時の私たちを思い出すと、全く笑えないと感じました。

 僕も震災直後に(東京から)広島に引っ越しました。福島で暮らしていた義父も、行政の情報は無視して東京に逃げてきたものです。本作は彼から人づてに聞いた(福島での)実話もインスパイアされています。

 今読むと「ふざけ切っているな」と思われるかもしれないこの漫画ですが、シリアスなテーマはここまで描かないと負けてしまう、と思うのです。漫画を当時描いていて、筆を折った人も多かったはずですし。

震災時より、苛烈に人々の分断が生まれている

――フィクションがかすむほどの異常な現実、という意味では、昨今のコロナ禍も3・11とよく比較されますね。このタイミングで電子版出版に踏み切った理由は?

 電子書籍化自体は、コロナ禍の前から準備していました。自分の著作について、電子版について著作権をすべて管理しようと思ったのがきっかけですね。

 ただ、今広島に住んでいても、震災時よりコロナの方が当事者意識はみんな強いと感じます。震災時、地元(広島)に住んでいる親たちは「福島や東京で起きていることになぜ慌てているんだ」というノリでした。今は子どもから高齢者までコロナの恐怖が共有されていますね。

 僕もコロナ禍について「震災以来の大きなことが起きたな」と思いましたが、一方で「そこから誰も学んでいない」とも感じます。SNSを通じて政治参加がしやすくなったと言われていますが、(ネットの言説は)むしろ醜悪な物になっている。震災時よりも、もっと苛烈に人々の分断が生まれていると思います。

 コロナの時代にこの作品が読まれる理由があるとすれば、震災時と同様に「混乱をなぞらえている」点です。特に、いっとき書店が(自粛で)閉店するなどあらゆるカルチャーが分断されつつあるこの状況下で、電子版で本作を届けるのは正解だったと感じますね。

――一方で、3・11とコロナ禍は本質的に違う面も少なくないと思います。例えば大学が休校してオンライン授業になるなど、若い人同士の「出会い」の場は非常に少なくなっていますよね。本作はゼロ年代ごろ流行ったボーイミーツガール、ひいては世界の危機と恋愛を描いた「セカイ系」にも通ずる作風ですが、コロナ時代の若者のリアルとずれる部分もあるのでは?

 実生活者として考えると、うちの娘は4月に大学に入学したのですが、地元と東京のどちらにするか考えて地元にしたんですね。東京に行っていたら、バイトも友達作りも何もできなかったかもしれません。親の目線では良かったなと思いました。

 確かに、(放射線の危険が叫ばれていた)3・11直後でも、ボーイミーツガール的に(男女が)で会って触れ合うこと自体はできました。今は、彼らの出会える機会はかなり封じ込められているのかもしれません。一方で、今の子どもたちがよくやっているのはゲーム上でのアバターを介しての親密な会話ですね。

コロナ禍をぶっちぎる想像力のフィクションを

――セカイ系作品も、「主人公はこの世界と彼女のどちらを選ぶか」といった構造の安易さが一部では批判されてきました。ただ最近は、コロナ禍前からですが、まさにアバターになってそもそも現実から別世界に逃げ込んでしまう、「なろう系」作品の台頭も顕著です。

 なろう系は、まさに「自分じゃないキャラでその世界で遊ぶ」というものです。確かにコロナ禍を踏まえると、「(アバターの)世界を壊してまで、わざわざリアルで出会いたいか?」とも考えられますよね。

 一方で映画「マトリックス」などは、今見ると違う見え方ができます。(人類は)ネトゲのような世界に逃げ込んで楽しんでいる。けれども主人公・ネオはどんなに汚くとも、ロボットに支配された外のリアルワールドの方が良い、と考える。

――漫画をはじめとしたフィクションには今、逃避でなく現実に立ち向かう姿勢がむしろ求められている、と。

 やはり、なろう系的な作品は閉塞感を生むだけで今後、通じなくなってくるのではないでしょうか。脱アバター、コロナ禍をぶっちぎる想像力で描かないと、(フィクションは)難しくなってくると思います。

 本作を描いている時も、「現実はどうしようもないけれど、それでも物語を紡ぐには……」と考えていました。特に、正論だけではティーンエイジャーには伝わらない。正論を言っても仕方ない、ふざけまくるしかない、という思いだったのです。無論、今の状況を設計して書いた作品ではないので、今の若者には「何を言っているんだ」と通じない部分もあるとは思います。

 今は「セカイ系」的な想像をするよりも、むしろリアルに世界が崩壊しかけている状況なのかもしれません。その中で僕が次回作を書くとすれば、やはりコロナを前提にした物にすると思います。やはり脱アバター的な想像力が、今こそ求められているのではないでしょうか。