筆者の職場のひとつである「京都国際マンガミュージアム」(京都市)の2代目館長は、作家の荒俣宏である。その荒俣館長、マンガミュージアムに来ると、25万点のマンガ資料が眠る資料庫に潜っては、面白いマンガを発掘し、「こんなの、みつけたぞ!」とうれしそうに教えてくれる。
その報告があまりに面白いので始まったのが、小展示シリーズ「大マンガラクタ館」である。「マンガラクタ」というのは、「マンガ」と「ガラクタ」を組み合わせた荒俣の造語。マンガを含め、「だれかに発見されないかぎり、ずっとゴミくず同然に埋もれてしまう」ガラクタこそ面白いという荒俣の価値観を表したことばだ。
その「大マンガラクタ館」シリーズの拡大版が、現在同館で開催中の企画展「荒俣宏の大大マンガラクタ館」(会期8月25日まで)である。多くの人が見向きもしなかったモノやコトやヒトを情熱的に蒐集(しゅうしゅう)し、評価してきた荒俣の人生と仕事を紹介している。
企画展の最初のコーナーは「漫画と人生」。あまり知られていないが、自分がマンガ家になるものと信じていた荒俣は、小学生から大学生の頃までひたすらマンガを描いていたという。
1947年生まれの荒俣の少年時代、貸本屋が街のそこかしこに残っていた。荒俣少年のマンガの先生は、「貸本マンガ」の人気作家、平田弘史と楳図かずおだった。
貸本マンガの界隈(かいわい)では、若手マンガ家がアマチュアを巻き込んだ同人誌作りも盛んだった。64年、杉山明を中心に創刊された会員制同人誌『東京ジュニア』もそのひとつ。大学生だった荒俣青年は、この同人誌後半期の常連だった。
元々は後年プロのマンガ家となる実妹の志村みどりが同人会員として参加していたのだが、忙しくなった妹に代わってイラストを投稿していたのである。
B7サイズ32ページで67年までに全19号が作られた。この小さな同人誌は、アンダーグラウンドメディアの貸本マンガから登場した「劇画」という新しい表現が、オーバーグラウンドのマンガ雑誌でも大きな潮流を作っていく、ちょうどその過渡期に刊行されていた。
64年の創刊にあたって、「これからは堂々たる実力をもった劇画家が登場しなくてはいけない」という檄文(げきぶん)を送り、第2号のための描き下ろし表紙イラストを提供したのは水木しげる。『週刊少年マガジン』に掲載されていた「ゲゲゲの鬼太郎」が、68年のTVアニメ化で大ヒット、人気マンガ家の地位を確固たるものとした。
その他、辰巳ヨシヒロや水島新司といった、後にメジャー誌でも活躍していく貸本マンガ界のスターたちも描き下ろしイラストを提供している。会員の投稿イラストのゲスト評者にはちばてつやの名前がある。杉山氏によれば、こうした人脈は「派出アシスタント部」を作り、様々な作家の仕事場に出入りし、築いたものだという。
そもそも、当時の貸本マンガ界における作者/読者、プロ/同人の境界はあいまいだった。荒俣の言葉を借りれば、「エスタブリッシュメントの作家しか使わないから、読者は常に読み手でしかない」オーバーグラウンドのマンガ雑誌と違って、貸本マンガは「まんが家をつねにさがして」いた。
荒俣が大学4年生の時には、貸本マンガ出版の若木書房のために40ページあまりのマンガを描きかけている。しかし、この作品は完成することなく、マンガ家・荒俣宏は誕生しなかった。そして、同じ頃に仲間と作っていた怪奇幻想海外文学の同人誌『リトル・ウィアード』に掲載した翻訳が認められることで、文字の世界に進んでいくのだった。=朝日新聞2020年7月28日掲載