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今村翔吾さんが読んできた本たち 作家の読書道(第219回)

小学5年生で『真田太平記』を読む

――今村さんは本をよく読む子どもでしたか?

 幼い時に絵本はすごく読んでいましたね。うちのおかんが「本を読む子にしよう」と思ったんか、通販みたいなので大量に買っていたのが家に何百冊かあったと思います。『三びきのやぎのがらがらどん』とか。『ねないこだれだ』が好きすぎて、僕が読んでいるところをおかんが撮った動画が残っています。最後の「おしまい」っていうのをやりたがって、何回も行ってる動画が(笑)。
 そのわりに本は嫌いやった。小学校の時はほとんど読まなかったです。学校の課題図書も読まされている感があって、めっちゃ嫌やなーと思ってました。勉強もそうやけど、本も「読みたい」というタイミングが人によって小学生やったり中学生やったり、もっというたら定年迎えてからだったりするから、その人が読みたいと思わんタイミングやと本との出合いは悪くなるんやないかな。
 で、はじめて読んだのが、小学校5年生の時で、その頃から「なぜそれをチョイスした」と言われているんですが、池波正太郎の『真田太平記』なんです。奈良の、今はもうない百貨店みたいなのの向かいに、今でもある古本屋があって。そこに朝日新聞さんの単行本の全巻がセットで売ってたんですよ。それを母親に「買ってほしい」って言うたんですよね。

――なぜそれをチョイスしたんですか(笑)。

 自分でも「ヤバいな、その小学生」って思うけれど、関西人って「関西人=真田幸村が好き」みたいなDNAが若干あるんですよ。というか「徳川は悪い奴や」という刷り込みや、関東に対する対抗意識がある。関東嫌い、関東を作った徳川嫌い、イコールそれに抗った真田格好いい、って。だから歴史を知らなくても、真田幸村というのはなんとなく聞いていたんですね。それで古本屋に『真田太平記』があったから、猿飛佐助とか霧隠才蔵とかが活躍する講談物のようなものをイメージして「欲しい」と言って。夏休み中やったんですけれど、読み始めて「あ、猿飛佐助出てこおへんのか」と思いながらも読み出したらめっちゃ面白くて、夏休み40日間で全巻読んだんです。
 そういう意味で読書の入り口は池波正太郎先生で、そこから池波先生の本とか、司馬遼太郎先生、藤沢周平先生を読みはじめて。あとは敬称略でいうなら吉川英治、海音寺潮五郎、陳舜臣とかですね。

――メジャーなところを軒並み。

 そう、その頃出ているものは軒並み読んで、中学校くらいには読むものがほぼなくなって。それで池波先生の『男の系譜』とか、『男の作法』とかのエッセイを読んで、「どんだけ若くてもチップはしなさい」みたいなことを学びました(笑)。高校生の時にはもう、友達と旅行した時なんかに500円玉とかをポチ袋に入れて仲居さんに渡す生意気な男になっていました。蕎麦も、その地域や店によっての味があるから、つゆに全部つけても半分つけてもいいとか、人のもんを「まずい」とかいう奴は野暮やとか、鮨屋で「ガリと呼ぶな」とか「あがりと呼ぶな」とか、いまだに守ってます。「お愛想」も言わへんもん。「お会計お願いします」って言います。池波先生の思想を学んでいるから(笑)。

――ところで奈良の古本屋さんとおっしゃいましたよね。生まれは京都ではなかったでしたっけ。今は滋賀にお住まいですが。

 そう、京都の一番下の木津川市というところの旧加茂町が出身で、そこは京都でありながら生活圏がもう奈良なんですよ。県境超えて奈良で買い物するのが普通、みたいな。京都市内に行くには4、50分かかるのに対して、奈良までは10分、15分みたいな。

――関東への対抗心が刷り込まれたというのは、大人がなにか言っているのをよく見聞きしたといった体験があったのでしょうか。

 まだちょっと昭和の気風があって、そこらへんで酔っ払ったおっちゃんが「東京もんはー」とか「徳川がどうの」と言うてる時代やったんです。それに京都でも太閤さんは人気がありましたね。聚楽第だったり公家の文化的な意味合いもありました。まあ、もちろん今も阪神ファンやし。

――今振り返ってみると、どんな子どもでしたか。家にいるほうが好きな子どもだったのか、それとも...。

 どっちかというと小学校の間はインドアでした。でも田舎だったんで、都会の人から見るとめちゃくちゃアウトドアみたいなこともしてました。銛みたいなんで泳いでいる鮎を刺す能力とかはあるんです。好きだからできるのではなく、その地区の子はみんなできるレベルなんです。だけどどちらかというと、家でパズルしたりプラモデル作ったりするのが好きやったかな。で、小学校5年生で『真田太平記』を読んでからは、冷房のきいた部屋で本を読むのが至福でした。

――でもいきなり『真田太平記』を読んで、当時の風習とか景色って思い浮かべられましたか。時代劇とかを見ていたりしました?

 時代劇は好きやったんですよ。大河ドラマも好きで、3歳とか4歳で渡辺謙さんの「独眼竜政宗」とか見ていました。侍が突撃してくるシーンが好きだったみたいで、「政宗始まったー」っていつも言うてて、七五三の時の動画でも「だてましゃむねー」って言ってます(笑)。僕は憶えていないんですけれど、おばあちゃんが言うには、NHKの歌舞伎とかもよく見てたらしいです。人形劇の「三国志」は再放送で見て好きやったと思います。
 でもまあ、当時についてそんなに詳しくないのに読ませてしまう池波先生がすごかったんじゃないかな。

中学生時代から「オール讀物」を愛読

――大先生たちの作品をほぼ読み切ってしまった後は、読書はどうされたのですか。

 中学生の頃に、ほとんどの先生がもうお亡くなりになっていると気づいて「ああ、『鬼平犯科帳』の続きがもう出ない」「未完なのか」となって、無謀にも「まあ、自分が続き書きゃあいいか」というか「書いてみたいな」と思ったんでしょうね。言い換えれば、歴史小説や時代小説の系譜の続きを書いてみたいと思ったのがこの頃でした。
 で、「もう読む本がない」と言いつつ、そのあたりから確か北方謙三先生や浅田次郎先生にはまって、めちゃくちゃ読み漁ったんです。僕が初めてサイン会に行ったのが浅田先生が『壬生義士伝』で、高1の時でしたね。京都のジュンク堂書店やったかな。「こんな若い子が読むんだ」と編集さんと盛り上がったんですよ。『壬生義士伝』、はまったなあ。この前本棚の並びを直してたら『一刀斎夢録』が出てきて「ああ読もう」と思ってなんか全部読んじゃって。浅田先生、好きやなあ。

――「自分で続きを書こう」と思ったとのことでしたが、何か書かれたのでしょうか。

 ぜんっぜん書かなかった。口だけでした(笑)。ただ、僕は中学生の頃から「オール讀物」を読んでいたんです。「小説新潮」も読んでいた。それこそ、歴史の先生とかのエッセイや対談が載ってますよね。ああいうのが好きで読んでいると、「歴史を書くのはね、焦らなくていいんだよ」みたいなことをおっしゃっているんです。「40歳、50歳になると人として醸し出す重みが出る」みたいな。池波先生没後10年特集とかでも「むしろそれまで書いちゃいけないと思う」みたいなことが先生の言葉として書かれてあって、僕は池波先生の言うことを守ってきていますから「なるほど40歳、50歳にならない俺は書いちゃあかんねんな」って思っていました。司馬先生も「(若いうちに)書いてもいい味はでない」みたいなことは言うてはって、なるほど人生経験を積めばいいんだなというのは漠然と思って、40歳くらいまでは社会に出て働こうと思っていました。

――歴史の勉強も好きだったのでは。

 図鑑的なものを読んでいたら詳しくなって予備知識ができました。たとえば司馬先生の『夏草の賦』を読んで「長曾我部元親書いてんねや」って思ったらその関連の図鑑的なものを読んで、また小説に戻って、その往復。資料的なものと小説的なものと往復して僕の歴史の知識は培われていきました。
 だから歴史は成績良かったですね。他はヤバかったけれど(笑)。それは大人になってからも変わらんで、歴史系のものは面白そうなものがあったらとりあえず全部買っています今でも、歴史の本買う時は「資料として買っておこう」じゃなくて「面白そう」と思って買ってるから。この前も『戦国、まずい飯!』を見た瞬間「面白そう」と思って買ったし。

ダンスインストラクターから作家に

――部活など、他に何か打ち込んだものはありましたか。

 家業がダンススクールやから、中3からはダンスをやってました。3つ下の弟は小6くらいから始めているから、僕は遅かったですね。だから弟のほうがはるかに上手いし、最後までダンスが好きとは思わなかったけれど、ダンスの先生をやっていました。
 僕、さっきも言ったようにアクティブなこととか別に好きなほうでもないし、弟と仕事でクラブに行っても、仕込みが終わったらあの爆音のところで文庫本読んでて、弟に「クラブで文庫本読んでんの、兄貴だけやぞ」って言われたりとか。
 ダンス自体は別にそんなに好きやなかったけれど、人にものを教えたり、子どもたちに何か指導するのは性に合ってました。コーチングが好きやったんやろうな。大げさにいうと、人と何かをするとか、人とともに生きる的なことは好きなんやと思います。そういうのが作風の中にも活きているというか。僕の場合、歴史の知識と、人と人との繋がりを描きたいっていうのがくっついてますね。

――社会人になって、ダンスインストラクターとして活動されていたと。さきほど、「40歳になったら書けばいい」と思っていたとのことでしたが、実際にはもっとはやくから小説を書き始めていますよね。

 30歳になった時かな。小説を書かずにいるのは、池波先生の言葉を言い訳にしているんじゃないかとふと思ったり、今やらんかったら40歳になってもやらんで「50歳になったらやろう」と言っているビジョンが見えたんですよね。それだときっと50歳になってもやらんだろうな、って。その瞬間に、「よし、じゃあ今やろう」って思って、その2週間後くらいに父親に「ちょっと仕事辞める」って言うて。それが2014年の11月。で、引継ぎとかをして2015年の2月にはまだ1作も書いていないのに辞めて、もうヤバい状態。
 書いてないのに無駄に自信はあって。歴史小説に関しては、この年頃で俺ほど読んできた奴はそういないだろうっていう自信がありました。で、書いてその年から新人賞に応募をはじめました。

――すぐ書けたんですか。

 すぐ書けました。やっぱ天才なんやと思った(笑)。

――あはは(笑)。

 (笑)。理由はないけど「いけるんちゃうか」という確信は間違ってなかったと思った。なんかこう、俺には読んできた先生たちのパワーが入っている、みたいな。歴史に関しては自分は面白い小説が分かるし、自分の目で面白いと思うものを書けばいいんやろうと思っていました。

――そこからいろいろな賞に投稿されたわけですか。地方の小説の賞も獲っていますよね。

 小説には詳しいけれど、小説新人賞には無知で、地方と中央の差も知らなくて、何の賞を獲ってもデビューできると思ってたんやろうね。片っ端から締切がきたもの順に送っていました。それで候補に残って「いける」って思ったり。2015年から投稿して、2015年の末にポンポンと獲ったのかな。最初に伊豆文学賞、次に九州さが大衆文学賞。伊豆文学賞では始まって以来の最高得点みたいなことを言うてくださって、嵐山光三郎さんが「俺がまだ編集者だったら絶対この子は買う」と言ってくださったけれど、その場に出版社の人が誰もいないからどうしようもない。2週間後に九州さが大衆文学賞の授賞式があって、北方謙三先生と話す時間があって、そこにいた祥伝社の人に「俺はこいつは絶対書けると思うよ」みたいなことを言うてくれはって。その時に「3か月くらいで何か長編書けるか」と訊かれて、憧れの北方先生やし、ハードボイルドも北方先生やったら読んでいたし、ここは男を試されてんねんなって思って「1か月で充分です」って言うたんですよ。北方先生めっちゃ喜んで笑ってました。ほんで1か月で書いたのが『火喰鳥』。それを祥伝社が「めっちゃ面白い」って言うてくれたんです。ただ、僕もシステム分かってへんから「絶対ほめ過ぎや」「自費出版させられる」って思ってた。

――ふふ(笑)。その『火喰鳥』を第一巻として、火消たちが活躍する「羽州ぼろ鳶組シリーズ」が祥伝社文庫から11冊も出ていますね。すごい執筆スピード。

 最初はさすがにそんな売れへんかったけど、いつぐらいやろう、17年の秋くらいからちょっと売れるようになってた。ただ、まだ中央の賞を獲ってないから、編集者に、プロになってからも応募できる松本清張賞とか、角川春樹小説賞とか、そういうのに出しといてください、みたいに言われたんですよ。で、応募を続けていました。17年は最終候補止まりで獲れへんかったけど、18年になったら僕「小説で食べていける」ってなって、その2月に専業になったんですよ。出版社も「大丈夫やと思います」と言ってくれたけど、「もう応募せんでいいですよ」とは言われてなかったんで、だから、その後も応募し続けていたんですよ。で、「ぼろ鳶」の5巻が出る時に「来週時間ありますか」みたいなこと訊かれて「いや、春樹賞の原稿あげなあかん」と言ったら「まだ応募してたんですか!」って驚かれて「あなた達が止めへんからやろ」って。それで書き上げて春樹賞に出したのが『童の神』で。

――わあ、それで受賞したんですね。しかも山田風太郎賞や直木賞の候補にもなって話題になって。

 逆に言うたら書いといてよかったって。書いてなかったら、ずっと単行本の世界に来んで、文庫でシリーズ書いてるだけやったかもしれへんから。

――さきほど専業になったとおっしゃっていましたが、ダンスインストラクターを辞めた後にお仕事されていたのですか。

 たまたま滋賀県の守山で募集してたんで2年間発掘調査をやりました。「歴史秘話ヒストリア」とかでよく見るような発掘現場の監督さんみたいな感じです。
 僕、本が好きすぎで歴史の資料とかも見ているうちに、最終的には発掘調査報告書とかも読むようになっていたんですよ。そうなるとまあ、発掘でどういうことが行われているかも分かるようなるし、土器の採寸とかもできるようになる。まあ、小学校の頃から史跡の行政の発表とかも母に頼んで見に行っていたので、その流れもあったのかな。現場の人もすごく応援してくれはったので辞める時も迷ったけれど、それで書くほうに集中できなかったら本末転倒やし、勇気持ってデビュー10か月で辞めました。

――仕事しながら新人賞に立て続けに応募するための原稿を書くのは大変だったのでは。

 頑張ってた。夏なんて発掘現場は死ぬほど暑いけど危ないから作業服着なあかんし、汗でドロドロになって5、6時に帰ってお風呂入って、そのままパンツ一丁で書き出してました。六畳一間で最初はみかん箱裏返して机にして、座布団もなかった。座椅子みたいなの買った時に感動したの憶えているもん。

とことん読み込むタイプ

――それにしても、歴史小説が好きなあまり発掘調査の報告書まで読むとは。

 なんかもう、変な歴史小説のはまり方もしていましたね。先生ごと、年代ごとに並べて「誰がどの時期に調子悪いか」勝手に当てるゲームもしていたし。この小説は単行本にする時に「オール讀物」に連載していたこの部分を全部削ったりしているとか、修正具合がいいとかいって「この時期はしんどかったんやろうな」とか(笑)。

――マニアック!

 どの先生もある時期に、方向転換なのか分からへんけど、若干作風が変わるというか。僕にとってはちょっと外れの時期が来るんですよ。で、それを乗り越えていったのが大先生たちなんですよね。僕の勝手な予想ですけれど、そうとしか思えないぐらい、みなさんそういう時期があるんです。そういうのを見ながら読むのがすごく好きやった。
 だから僕も大作家先生になるためには絶対そういう時期が来て、そこを乗り越えていかんなあかんやろなっていうのを先人たちから学んでいます。そういう時期が来て人になにか言われても、あんまりへこまんようにしようと思ってる。そこを乗り越えたらえんやろなあって。

――外れの時期って、筆がのっていない感じなんですか。

 いや、全然うまいんですよ。当たり前やけどちゃんと作品になっている。ただ、俺が好きやったこの先生じゃないって思う時が一瞬あるんですよ。人によったら2作、3作続くこともある。それを乗り越えた時、またすげえパワーアップして戻ってきている。だから「失敗することは裏切りじゃない」って読書体験から学んでる。作家だって完璧じゃないから、100%ヒットを作ることはできないかもしれない。でも向き合っていけば抜けられるし、待ってくれる読者もいると思うから、やったらあかんことはやらんで、ちゃんと向き合っていくというスタイルだけは変えたらあかんなって思いますね。

――そこまで読み込んでいるということは、読書記録をつけたりしていますか。

 つけてない。「読書記録」という言葉自体を知ったのは作家になってからかも。けど、一言一句はさすがに無理でも、好きになった文章とかやったら憶えてますからね。記録をつけていないからこそ、それで残るものって本当の名作と思えるし。
 僕の持ってる『燃えよ剣』はもうヤバいですよ。新品で買ったのに、読みすぎて本が崩壊寸前になってます。池波先生が好きと言いながら、僕は歴史小説においては、司馬先生の『燃えよ剣』を教科書やと思ってるんですよ。『燃えよ剣』のスタイルで書くのが面白いと思ってるんですよ。

――そのスタイルとは。

 『童の神』も『じんかん』もそうですけれど、まず、前半で個を徹底的に描くんですよ。前半で読者に個を好きになってもらうんです。で、主人公に対して応援してもらうスタイルをとって、後半は集団の中にその個を放り込む。集団をとらえようと思うと、カメラワーク的にはドローンを飛ばしたような、空から見たような絵を使わないとあかん時があるんですけれど、そうすると個の顔が見えなくなっちゃうんです。たとえば突撃する場面で、『童の神』でいったら「桜暁丸は斬った」とか「桜暁丸は顔をしかめた」とか「桜暁丸は」じゃなくて、「軍勢は」になる。でも前半で桜暁丸を好きになってもらったら、その軍勢の中に桜暁丸もいるんやって思って、勝手に桜暁丸の顔を想像してくれる。
 それと、個が乗り越えるものと集団が乗り越えるもの、明確にふたつ用意するんです。『燃えよ剣』で言うと、剣客土方歳三を描くのが前半で、後半は土方歳三たちが何に抗ったのかが描かれる。それは新政府軍なのか時代なのか、ここは解釈はいろいろある。

各先生方、お薦めの作品

――これまでお名前が挙がった先生方の作品で、あまり読んでいないという読者にお薦めのものを挙げていただけませんか。

 ああ、1冊ずついきましょうか。池波正太郎さんやったら、時代小説にあまり読んだことない人に薦めるなら長くないほうがいいのかもしれないけれど、やっぱり一番好きだし思い出深いのは『真田太平記』になんのかなあ。司馬遼太郎さんやったら、これもやっぱり『燃えよ剣』。ちょうど映画にもなるしね。『風の武士』も好きやけどな。
 海音寺潮五郎さんは難しいな。短篇集でもどれが表題作になってどう編まれているかで違うからなあ。あ、資料的な部分と小説的な部分の中間みたいな、列伝ものがいいかもしれん。『悪人列伝』とか『武将列伝』とか。歴史をそういうくくりで学んでいくにはいいんじゃないかな。山本周五郎さんはやっぱ、メジャーやけど『樅の木は残った』でしょう。あれ読んどきゃいい。ただ、短篇集でも、女の人が読んで楽しめるような、強い女の人が出てくるのが多いからお薦めです。
 藤沢周平さんは何読んでもおもろいわ。『溟い海』とか『蝉しぐれ』とか。まあ、『たそがれ清兵衛』とか『武士の一分』の原作の「盲目剣谺返し」(『隠し剣秋風抄』収録)とか、山田洋次監督が映像化しているものは、入り口として結構入りやすいと思ってます。というのも、藤沢先生の本は、ものによっては江戸時代の知識がないと分かりづらいものもあるから。

――吉川英治作品はどうしますか。

 まあ『宮本武蔵』っていう人が多いと思うけれど、僕がいちばん影響を受けているのは『三国志』かな、やっぱり。影響を受けているというか、いちばん好きというか。あれ、書きすぎて堂々と間違っているんですよ。死んだ人が復活しているって有名な話なんです(笑)。校閲も見逃してんねんけど、それでも面白いってすごくない?(笑) それと、僕が持っている『三国志』が旧字体なので、読むのにすっごく苦労して。「体」とかも「體」って書かれているんですよ。「これ、なんて字?」って分からないまま読み続けて、途中で「あ、これ"体"なんや」って分かって読めるようになっていったから、思い入れがある。よく「漢字が読めへんから」という人もいるけれど、気にせずばんばん読んでいったらいいと思う。
 陳舜臣さんは難しいな。あ、『琉球の風』がいいんちゃう? 陳先生は中国ものも書いてたけど、これは中国と日本の文化の交流点の話やし、大河ドラマにもなったし。陳先生って人格者として、いろんな人のエッセイに登場する。「陳先生からこれをもらった」とか。「陳さんが誰に何をあげたかリスト」作りたい(笑)。手紙もまめで、こっちが返信するとまた返信がきて、手紙のやりとりが終わらない説もある。アンチにも手紙返してたんやね。アンチやのに住所書いてきたから「君が僕のこと嫌いなのは分かった」みたいなことを書いて返したらしい。どんだけ人格者やねんな。

――そういう話、すごく面白いです!(笑) さて、浅田さんや北方さんは何を選びましょう。

 浅田次郎さんは『壬生義士伝』か『一路』かなあ。慣れへん人やったら『一路』がいいんちゃうかな。おもろいから。北方ワールドを体験したければ『破軍の星』か『武王の門』か迷うけど、『破軍の星』にいっとこう。柴田錬三郎賞作品やし。

最近の読書、そして執筆について

――歴史小説、時代小説以外のものって読まれますか。

 あえていうなら直木賞とか芥川賞を受賞して話題になったものはつまんで読むけれど、あまり読まなかったですね。僕はなんか知らんけど、ミステリーを毛嫌いしていて。理由は不明。何か刷り込みがあったのかもしらんけど。

――えっ、でも今村さん、さっき雑談で『屍人荘の殺人』の今村昌弘さんと親交があるっておっしゃってましたよね? めっちゃ本格ミステリ作品の。

 そう、同じ苗字で、同じ年のデビューで、こっちは10冊書いてようやくヒット打ったけど、向こうはデビュー作でいきなりホームランでバーンや(笑)。でも仲いいし、LINEもしてるし。ミステリーの人が嫌いなわけでなく、ミステリー作品が嫌いやってん。だから僕、これ言うたらマジでビビられると思うけど、はじめて読んだミステリーが『屍人荘の殺人』なんです。

――へえー! ビビったというか驚きました(笑)。

 あれは、亜流なんでしょ? 「ミステリって結構、〇〇とか出てくるん?」って人に訊いたら「いやいや、あれは結構珍しくて」って。ただ、そっから僕、ミステリーって面白いと思って、今さらながらに江戸川乱歩とかも読んで「めっちゃ上手いやん」とか「ようこんなん思いつくな」って言ってます(笑)。最近、ミステリーというジャンルを丸々残しててよかったなあと思ってます。

――これからあんな名作もこんな名作もはじめて読めるんですね。羨ましい。

 ただ、読んでなくてよかったのは、僕、「くらまし屋家業シリーズ」でミステリーっぽいことやってんねんけど、もしもいろいろ読んでいたら、自分が考えたトリックとかでも「これ誰々のと似てるな」って思ってしまったはず。読んでないから「これは俺が考えた」って言える。

――他の人と似るかどうかでいえば、歴史や時代ものって、同じ人物や出来事をいろんな人が書いていますが、それは似てしまうかどうか意識しますか。

 まったく同年代生きている作家さんと同じネタを書くことは避けるけれど、どうしても書きたかったから書くかも。「まあ見とけよ、俺がもっと上手く書いてみせてやるわ」ぐらいの気持ちで書く。作家はみんな、そう思ってると思うし、そうでないとやっていけへんと思う。
 ただそれがやっぱ、僕が尊敬してしかもお亡くなりになった人になると話は別で、司馬さんが書いたもの、池波さんが書いたものってすごくハードルが高い。かといって逃げていてもしゃあないから、気を引き締めてやるようにはしている。だから新選組とかもいつか書くやろうし。気合を入れて。でも、龍馬はやらん気がする。

――なんでですか。

 龍馬あんま好きじゃないからな。なんか知らんけど。それを解き明かすのも面白いんだろうけれど。

――書かれる時代もさまざまですが、どの時代も書けるし書きたいですか。

 なんでもいけます。書くものを時代とか武将で決めていないんです。現代に何が必要かというと大げさかもしれんけど、現代の人がどんなものを読みたいかを考えます。必要かどうかじゃなくて、何を欲しているか、何に疲れているかみたいなところを考えますね。そこを真っ向から書ける時代と人物を書きます。
 たとえば、今の時代ってこういうことを忘れ去られているよね、と思ったとします。じゃあそのテーマにいいような時代はどこだろうとウィーンと遡って、「ああ、この時代よさそう」って横軸が見つかったら、次は縦軸というか、どんな人物がいたかを想像して、「ああ、あいつよさそう」というのをピピピッと候補を出して、「じゃあ、こいつらで組んだらどうなるんやろうか」「こいつちょっと駄目」「ああ、こいついいな」となる感じかなあ。だから、「あの人物書きたい」という時もあるけれど、それが理由では書きません。「いつかこの人書いたら面白そうやろうな」ってふわりと候補の一人にとどめておく。
 だからどの時代も書きますよ。文春では鎌倉時代を連載しているし、職人ものも集英社でやってるし、戦国も書く予定だし、幕末も「やれ」って言われたらやるし、やりたいし。まあ、奈良時代とか書いたらめっちゃコメディに書いてしまいそう。『貧窮問答歌』の山上憶良をコメディで書くとか。弥生時代になるとちょっと...。古墳時代は...もうちょっときついかなあ(笑)。面白いけどね。

――では『じんかん』で松永久秀を描いたのはどうしてだったのですか。

 もともと松永久秀は「いつか書きたいな」とは思ってたんですよ。ただこれは、もっと先の自分の集大成みたいになるとも思っていたんです。でも最近のネットとかでの過剰なまでの叩きとかいろいろ見て、なんでこんな人は優しくなれなくなったんだろうとか考えた時に、松永久秀も同時代の人に悪人と叩かれて、資料的にもすでに冤罪とされているのにまだ叩かれている武将やから、題材的にはいいんだろうって思ったんです。
 ただ、70歳まで生きているけれど33歳までの経歴が不明ってことで、今の俺にはちょっときついんかなと思っていたら、講談社が「やれますよー」って言うから。「今村さん、思った時が書く時ですよ」って。絶対に適当に言ってるんですけれど、なんとなく思ったのは、まあこれを虎の子みたいにあっためといたら、一生書かへんかもしれんなって。書けるチャンスがあったら書いたろうと思いました。

――松永久秀のイメージを覆したいという気持ちもありましたか。

 いや、世間のイメージの真逆を書こうとかいう気持ちはなかったんですよ。まあ、なぜここまで悪評がついたのかっていうのには興味がありました。悪評がついたにはついたなりの理由もあったはずだから。歴史のとらえ方で最近危険やなと思うのは、『八本目の槍』で書いた石田三成についても思ったんですけれど、昔あんだけ悪もんと言われていたのに、「戦国無双」とかでイケメンになって、「義の武将」みたいなこと言われてむっちゃええ奴になって人気が出ている。そっちも嘘やろうと僕は思っている。過剰ないいもんも、過剰な悪もんも、どっちも本当かもしれないしどっちも嘘かもしれない。僕は『八本目の槍』で人間石田三成を書くためにその原点ってどこにあるんやろって思って青年期まで遡る手法をとったんです。今回も、松永久秀をめっちゃいいもんにして書くとかじゃなくて、なぜ彼が悪く言われるようになったのか、その理由に注目したいと思いました。作中で、一度も会ったことのない人間を、俺はどうしてこんなに憎んでいるんだろうと気づくシーンがありますが、どちらかというとそれが書きたかったことかなと思います。

――最近の読書生活は。

 最近はあんまり読まなくなったかな。読む時間がないという物理的なこともあるけれど、僕は人の文章を「食べる」という認識なんですが、あんまり人の文章を食べ過ぎると問題があって。僕は『くらまし屋稼業』で人の技を真似る主人公を書いていますが、僕自身も吸収率がいいと思うんですよ。人の文章を食べて「ああ、いいな」と思うところを取り入れて、変換したりブレンドして自分の文章に活かすのは得意なほうなので、だから人の文章を食いすぎるのも問題なんです。

――人の文章をブレンドして取り入れるというのは。

 「この2行は池波さんっぽくいこう」とか、「冒頭は北方先生っぽくパンチ強くいこう」とか、「解説やから、司馬さんみたいなまとめ方がいいな」とか、「この章の締めはきれいな文章で終わりたいから藤沢先生っぽく」とか。それと、僕は結構山本周五郎先生の「細部から引く」というやつが好きなんです。山本先生というのは光っている廊下からがーっと引いていく描写、みたいなことをやるので、そういうことをやるとか。
 語彙に関しても、『八本目の槍』で書いたかな、「屹峭たる断崖」っていうのは山本先生がよく使う言葉だし、「茅舎」というのは司馬先生が好き好んで使う言葉で、僕も使うし。池波先生は若い人の咳は「せき」って読ませるけれど、おじいちゃんの咳は「しわぶき」って読ませる。「切っ先」も「鋒」という一文字で書くとか。いろんな人の文章や語彙が血となり肉となっているのを感じながら書いています。

――一日のタイムテーブルって決まってますか。

 朝の8時から夕方6時まで書く。昼飯は食べないですね、食べてもヨーグルトくらい。で、基本6時まで書いて、出前をとるか、事務所の子が作っておいてくれたものを食べてちょっと休憩して、9時くらいから深夜2時から4時、まあ平均して3時くらいまで書いて、寝て、8時に起きる。どこにも行かないでほとんど書いてるわ。普段からそんな生活だから、新型コロナもまったく関係ない。

――そこまで人と接しない生活を送っているのに、なんでそんなにお話上手なんですか。

 昔からそうやなあ。ダンスやってた頃もステージのMCとか全部やってたし、単独でフェスティバルのMCの仕事とかもやってたし。もともと喋りは得意ですね。子どもたちにも教えていたしね。遠征とかでバスで移動する時とかも、「みんな、右に丸岡城が見えてきたぞ。丸岡城は日本で一番ちっちゃい天守閣を持つ城で」とか言って、子どもたちの5分の3が無になっていて(笑)、5分の1が「もういいってー」って顔をして、残りの5分の1が「翔吾君、聞いてるよ」みたいな感じで。

――翔吾君って呼ばれていたんですね(笑)。今お城の話が出ましたが、たとえばそういうふうにお城を観に行くとか、出かけたくはならないのですか。

 出かけたいですよ。本当は休みたい。別にこんなストイックがいいとは思ってません。休んで、お城にも行きたいし、セブ島とかハワイのような浮ついたところも行きたい(笑)。だけど単純に、時間がないんです。

――確かに、ものすごい勢いで本を出してますよね。今後のご予定も詰まっているのでは。

 刊行でいうと次が集英社の『塞王の楯』で、その次が文春の『海を破る者』かな。それから今読売オンラインで連載している『幸村を討て』で、それが終わったら角川春樹事務所かな。それらの連載が終わったら、KADOKAWAと光文社の連載を始めつつ、新聞連載の予定もひとつあって...。編集の人たちに騙されてん。「みんなこれくらいやってますよ」「これ断ったら二度と仕事出せへんよ」的なオーラを出しているから「やります」って言い続けたけれど、周り見渡したら、みんな断る時は断ってるやん。僕は2023年の夏になったら、休みます(笑)。