死を身近に感じてきた、という漫才師にして日本語学者が体験してきた「別れ」をつづる随筆集。
小学2年のとき、病で父を失った。死は「逃れようのない圧倒的な現実」だった。「僕は父親に教えてもらったと思うんです。日に日に干からびていくような感じを、目の前で見せ付けられた。『この人死ぬな』っていうのはやっぱりわかった」
別れは様々だ。がんになったバイト先の古書店主は「処分をするので手伝ってください」と笑顔で言った。幼い頃憧れたいとこは自ら死を選んだ。駆け出し時代のライブを支えた裏方スタッフの病死は人づてに聞いた。「後悔や寂しさはなくならない。共に生きていくしかない」
死に場所が自宅から病院や施設に移り、医療も発達した現代。「死ぬことに受け身をとり慣れていないと、ひたすら悲しむとか、真面目に受け取ることしかできないと思う。でも、偶然同じ時代を生きた喜びが勝るな、と」
その喜びと寂しさを存分に伝えるのが表題作だろう。落語会「渋谷らくご」のキュレーターとして、落語家の柳家喜多八、立川左談次の晩年にはとことん伴走した。芸の円熟期を目前に相次いで病に侵された2人は高座に上がり続けた。「そりゃあ、幸せなことです。亡くなる寸前まで、自分を待ってくれて、話を聞いてくれる人がいる。それだけで背筋が伸びる。生きながらえる」。演目選びや師匠弟子の系譜といった文脈を補って読み解き、執念の高座を情感たっぷりに描写し切った。
「肉体の消滅とは別に、思想や哲学、生きる姿勢が、いまも受け継がれていることはある」。それは偉人に限らない。「おばあちゃんがこう言ってたなとか、そういうことが大事だと思う。誰かを思い出してほしい」。もうすぐお盆だ。(文・滝沢文那、写真・村上健)=朝日新聞2020年8月8日掲載