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「これからの男の子たちへ」太田啓子さんインタビュー 男子にこそ正しい性教育が必要だ

文:玖保樹鈴 絵:マシモユウ(『これからの男の子たちへ』より)

女の子なら叱るのに、男の子は「しょうがない」で終わる

――タイトルを「男の子たちへ」にしたのは、自身のお子さんが男の子だったのも影響していますか?

 それが大きいですね。子どもたちのことは生まれた時から見ているけれど、子どもであっても社会的な生物なのは大人と変わらないと思ったし、私自身が女性として生きてぶつかってきたものと、子どもたちがこれからぶつかるものが違う気がしたというのもあります。もちろん性別という属性だけですべてが決まるわけではないけれど、性別によって社会から受けるものの違いは、現状では大きいと思っています。

 例えば女の子は学校や親から生理について教わるけれど、男の子は自分の体の仕組みや射精についてきちんと教わる機会がなかなかないとか、おかしいですよね。性教育については女の子にも全く足りていませんが、男の子にこそ性教育が必要だとずっと考えていました。

 2018年12月にimidasというサイトで「性差別社会と親子でどう向き合うか?」というインタビューを受けたのですが、前からこういうテーマについてお話ししていた編集者から「このテーマで本を書いてみませんか?」と持ち掛けられて。章立ては編集者からの提案をもとにし、基本的には言いたいことを書き散らかしたものをうまくまとめていただいた感じです。

――今回の本では男の子、ひいては男性にまつわるさまざまな「呪縛」やジェンダーバイアスをテーマにしています。たとえば男の子は、振る舞いが乱暴だったり落ち着かなかったりしても「男子ってバカだよね」と、笑って終わりにすることがよくありますよね。

 男子のやんちゃで他愛ない行動を笑いにする、という行為そのものを否定するつもりはないです。ただ、私も例えば「うちの息子も、こっちが一生懸命何かを話しても、鼻ほじりながらどこかに行ってしまうんですよ」と言って笑いを取ろうとしてしまうことはあるんですが、果たして、それが娘だったら同じようにネタにするのか、多分しないだろうと思うと、自分のなかにもバイアスがあると気づくことはあります。

 女の子と男の子が同じ行動をしていても、大人がそれに対して違う反応をして、男の子のほうがよりデリカシーのない扱いを受けやすい傾向はあります。こういうことに、大人が注意しなければならないと思っています。

 また、女の子なら決して看過されないような粗暴な振る舞いを男の子だと「男子はそんなもんだよ」と大人が流してしまうこともあります。暴力的な行動まで「男の子だからしょうがないよね」と、「男子あるある」で受け流すことの積み重ねは、「有害な男らしさ」に結び付くのではないかと、私は思っています。

30年以上「カンチョー!」に憤っていた

――その「男子あるある」の典型として、太田さんは本の中でとても真面目に、「カンチョー!」に対して怒っていますね。

 「カンチョー!」に対して私は、30年以上ずっとやめろと思っていたので、今回文章にできてすごくうれしい(笑)。 

 「カンチョー!」は日本独特の悪ふざけということになっていますが、これを悪ふざけと位置づけること自体が、悪質な行為を矮小化していると思います。私も10代のころ、知り合いの小学生の男の子に「カンチョー」されたことがあり、そのときの不快感と嫌悪感は今でも覚えています。

――30年前ならまだしも、今時カンチョーする子なんているんですか?

 いますよ!!そして、今の親世代も、結構鈍いと思います。「男子はやるよねー」みたいな。

 肛門を対象にした悪ふざけは時に深刻で、2018年に34歳の男性が、同僚からエアコンプレッサーを肛門に押し付けられ、肺損傷で亡くなる事件が起きました。加害者は「悪ふざけ」をしていたと言っていたそうですが、この加害行為は「カンチョー!」を面白がる感覚の延長にあるものでしょう。「カンチョー 日本 外国」というキーワードで検索してみると、外国人の教師が「いきなり生徒にやられて、驚愕した」となどと書かれたブログも見つかりました。

 「カンチョー!」はスカートめくり同様、性暴力です。同性同士であっても。でも、なんだか嫌だよなと思っていても、男の付き合いを意味する「ホモソーシャルの絆」が支配的な状況だと「変なやつ、女みたいなやつと思われたくない」などと、声をあげられなかったり、現状に適応して受け流すために、なんだか嫌だという自分の気持ちを麻痺させていたりする人もいるのが現状なのではないでしょうか。

――最近話題のドラマ「半沢直樹」も、役者揃いで面白いんですが、片岡愛之助扮する黒崎駿一にどうもモヤモヤするんですよ。今回もオネエ言葉丸出しで部下の股間をわしづかみにしています。SNSでは絶賛されていますが、本当に笑っていいのかと…

 上司が部下の股間をわしづかみにする行為は、セクハラででしょう。慰謝料を請求できる不法行為と言えます。明らかな性暴力を、笑いを取る文脈で描くというのは悪質だと思いますが。

――粗野な行為に対して「それは暴力だ」と声をあげると、「冗談に本気にして~」みたいに、逆に笑われることもありますよね。

 暴力への抗議をからかったり、笑いのネタにして隠ぺいしたりすること自体に、強い暴力性が含まれています。笑いの形を取られると、抗議しても「冗談がわからないやつ」扱いされることがあらかじめわかるから、ハラスメントをされた当事者は、声をあげづらい気持ちになるのは当然です。

 ハラスメントへの抗議の声を揶揄され、嘲笑われるのはつらいですよね。そういう状況を無くしたいし、良い方向に向かってはいると思いますが、1年、2年では無理ですね。

 私は10年、20年計画と考えていて、次世代への働きかけは被害者も加害者もいない世界を作るための、種まきだと思っています。もちろん今起きているハラスメントを放置してはいけないし、ハラッサーが滅びるのを待っていても、ハラッサーも世代を超えて再生産されていく可能性があります。でもそれでも声をあげる人が増えることで、世界がよい方向に変わると信じています。

――セクハラや性暴力に遭わないように、女性側に自衛を促すものはこれまでも多くありました。でもこの本は男性に向けて、加害者にならないためにはどうしたらいいかについて触れていますね。

 はい。加害者がいなければセクハラも性暴力もないので、被害者を生まないようにではなく、加害者を生まないようにすべきだと思うからです。

 「セクハラも性暴力もしない」という男性にも、自覚がないまま社会から色々なものを刷り込まれてしまっているところがあるのではないか。そしてそれを、本当は男性自身も嫌でアンインストールしたいんだけれど、うまい方法がわからないでいる、ということもあるのではないでしょうか。

 男性もお互いをけん制し合うホモソーシャルの場ではなく、「俺もそれわかるよ」とか、本音を吐き出せる場を作ることってとても大事だと思うんです。そうすることが男性自身を、縛っているものから解放することにつながるはずなので、もしこれを読んで何か響いたという男性は、ぜひ男子だけの読書会を開いて欲しいです。お互いに「自分もこういうことが辛かった」「ここがよくわかる」「ここは納得いかなかった」とオープンに語り合うことで、自分たちが陥っている問題と、向き合うことができるはずですから。

声をあげることで、性差別は改善されていく

――一方で以前から問題になっている性差別の概念も、声をあげる人がいたことで、少しずつ変わってきました。昔は水着でビールジョッキを持つ女性モデルのポスターがあちこちにありましたが、今は見かけなくなりました。

 10年、20年単位ではよくなっていると思いますが、まだ性差別や性暴力は終わっていないから、言い続けていくしかないですよね。たとえば現在の温泉は、男湯と女湯が日替わりになるのが当たり前で、「男湯は立派だけど、女湯は狭くていい」という人はいませんよね? かつては露天風呂は男湯にしかなかったり、女湯が質素で狭かったりしましたが、声をあげる女性たちがいたことで、改善されていきました。

 当時、性差別に抗議する女性たちは「ヒステリーババア」などとバカにされていたけれど、彼女たちは嘲笑を恐れずに、「そのうち時代が追いついてくる」と声をあげていました。性差別や性暴力に声をあげる人への風当たりは今でもとても強いので、委縮している人も多くいるはず。でも、過去を振り返ると、声をあげてきた先人たちの力で、前より性差別は減ってきているんですよ。声をあげれば社会は変えられるんです。そういう実例を知ると、萎縮せず声をあげる元気が出るかなと思って、そういうことも少し書いています。

――一方で痴漢の話をするとすぐ冤罪の話を持ち出したり、「俺はそんなことはしない」で終わりにして、向き合わなかったりする人も多くいます。

 英語の勉強を兼ねて英語圏のフェミニストのつぶやきを見ているのですが、「俺は性差別や性犯罪をしない(から自分には関係ない)」という態度を取る、いわゆる「ノットオールメン」は、どうやら日本だけの現象ではないように思えます。

 また、女性に怒られたり否定されたりするといきり立つのに、男性に注意されると素直に聞く人もいますよね。「何を言うか」より「誰が言うか」という属性が、誹謗中傷の有無や度合を大きく左右するというのは、こと性差別がテーマの時はよく見られます。女性が声をあげることに過剰に反応する一部の男性の攻撃性を見ていると、一部には、攻撃自体を楽しんでいる人もいるように感じます。また、攻撃性の根底には恐れや不安があって、女性をバッシングすることでその恐怖や不安を紛らわそうとしているのかもしれません。

――DVなどの犯罪の理由を「相手を愛しているからだ」とする男性もいますね。

 嘘をついて独身女性を口説いて、結婚していることが後からバレた際に「好きだったから」と言う既婚男性もしばしば見ます。この「好き」という愛情表現に見える言葉は、しばしば暴力やハラスメントを隠ぺいするんです。こういうのを見ているので、男の子が女の子に意地悪した時、「あの女の子が好きなんでしょう」と大人が言ったりするのはとても気になる、ということもこの本に書きました。

 「好意があるなら暴力の悪質さが減る」みたいな勘違いをさせる言い方ではないかと思っています。「愛してる」とか「好き」とかいう言葉には、容易に暴力を見えづらくする危うさがあることを踏まえ、大人は子どもに不用意に「あの男の子が意地悪したのは、あなたを好きだからなのね」などと言うべきではないと思っています。「そういう方法では好意は伝わらないしかえって嫌われても仕方ない」と正面から教えるべきではないかと。

10代の男子に読んでほしい

――この本を、どういう人たちに読んでもらいたいですか?

 読者として一番念頭に置いているのは、子育て中の親や教師や周囲の大人たちです。年齢問わず、男性にも是非読んでほしいです。特に10代くらいの男性に。高校生ぐらいから読めると思います。SNSを見ていたら10歳の子が「お母さんこれ欲しい」って言ってくれたという投稿があり、嬉しかったです。10歳だと全部読み通すのはちょっと難しいかもしれないけれど、気になるところだけでも読んでもらえたらと思います。

 でも子どもは成長が早いので「来年言うのではもう遅いのではないか」と思うことがたくさんあります。「ふつう」の大学生の集団性暴力事件の報道や、フェミニスト研究者への大学生の嫌がらせのツイートなどを時々見るものですから、ひとは何歳からでも学びなおせるとは思いつつ、かなり若い時期に性差別的価値観に染まってしまうことが割とあるのにはないかと危機感を持っています。

 だからできれば大学生になる前くらいの年頃のうちにこういうことを考える機会をもってほしいです。たとえば中高一貫の男子校の図書室とかに置いてもらえたら嬉しい。

 息子を持ってから、見聞きする男性の行動について「うちの子が10年後、この年齢になったらどんな感じだろう」とか、何かと身近に考えることが増え、色々なことを親心みたいな気持ちで感じるようにもなっています。

 息子含むこれからの男の子たちには、「男らしさ」の呪いから自由に生きてほしいし、性差別構造がある社会の中で「男性」という属性を持っているということの意味を理解し、積極的に性差別と闘う男性にも育ってほしい。私は、親としても大人の一人としても、「応援してるからね」って気持ちで、これからの男の子たちに期待し、見守っていきたいと思っています。

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