2歳の頃には自分で音読
――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
家に「ノンタン」のシリーズが全部あったんですよね。母いわく、私は1歳になる前くらいからひらがなを認識しはじめ、2歳の時にはそれを音読していたそうです。
――はやい! 0歳児の頃からお母さんが文字を教えていたそうですね。
そうなんですよ。ひらがなカードとかあいうえお表を見せられて、ひらがなを指差せるようになったのが1歳前くらいだったようです。それで2歳くらいには「ノンタン」を一人で声に出して読んでいたとは聞いているんですが、自分では憶えていないです(笑)。
――自然と本好きの子どもになったのですか。
そうですね。家に本がありましたし、母が図書館のヘビーユーザーだったんです。弟が2人いるんですが、3週間ごとに家族全員分の貸し出しカードで絵本を50冊くらい借りていて、家が図書館のような状態になっていました。その時は水戸に住んでいて車社会だったので、図書館にも車で行っていたんです。
――あ、水戸なんですね。辻堂さんのペンネームの"辻堂"は、出身地の神奈川県藤沢市の辻堂からつけたそうですが。
両親ともに神奈川の人間で、実家は藤沢市ですが、小学4年生の頃までは、父の転勤で一時的に水戸に住んでいたんです。
――そうでしたか。3週間ごとに50冊だと、名作から新しいものまで網羅されたとは思いますが、どんな本が好きだったんですか。
小学校に上がる前でいうと『きんぎょが にげた』とか。ああいう特徴的な絵の本は憶えていますね。あとは「こどものとも」という絵本のシリーズは沢山読んでいました。そんな感じで、小学校に上がる前は選り好みせず、なんでも読んでいた気がします。
小学校に上がってからは文字が多くて挿絵も多い児童書も読むようになって、『はれときどきぶた』のシリーズや『わたしのママは魔女』のシリーズ、『エルマーのぼうけん』のシリーズを読みました。『学校の怪談』系の本も図書館にあったので読んでいましたね。
――図鑑だったり学習漫画などは読みましたか。
低学年の頃は児童書しか読んでいなかったんですが、漫画だとおそらく小学校3年生以降に『まんが里見八犬伝』や『まんが東海道中膝栗毛』とかを読んでいましたね。親が子どもに読ませたい漫画本、みたいなのは与えらえれていたので。あと、もうちょっと先になると『はだしのゲン』とか。
――今振り返って、どんな子どもだったと思いますか。まわりと比べても本が好きだった子どもだったのか、外で遊ぶのが好きだったのか......。
それはどっちもでした。水戸の郊外に住んでいて、新興住宅地が近かったのでそこの子たちと毎日日が暮れるまで外で遊んで、雨の日など外で遊べない日は家でずっと本を読んでいたと思います。
――その頃、自分でお話を作ったり、読んだ本の続きを想像したりということはありましたか。
あ、たまにしてました。それこそ小学校に上がる前に、弟が描いた絵の裏にお話を書いて勝手に紙芝居にしたりとか。弟のとりとめのない絵のキャラクターに名前をつけたて「まるお君がさんかくこちゃんのところに遊びに行きました」みたいな、すごく変なお話でした。あと、絵とお話をコピー用紙に書いてホッチキスで綴じて母に読ませたりとか。
当時、公文式に通っていたんですけれど、そこの教室の大きな本棚に竹下龍之介さんの『天才えりちゃん金魚を食べた』という本があったんです。それは竹下さんが6歳で書いた本なんですね。絵と字を自分で書いている。それを読んで「なんでこの子は6歳で本が出せるんだろう」って嫉妬しました(笑)。「私もこういうのを書きたいのにな」って思った記憶があります。
――じゃあ、その頃から「作家になりたい」みたいな気持ちがあったんですね。
はい。お話が好きだったので、自然と自分でも書きたいと思っていたような気がします。
――では、学校の国語の授業とか、作文を書くのは好きでしたか。
好きでした。国語はたぶん、授業のなかでいちばん好きでした。作文は「3枚が上限」って言われると3枚書くし、「5枚が上限」と言われると5枚書く、みたいな子どもでした。きっと「上限がない」がないと言われたらすごく書いていたと思います(笑)。書くことに抵抗を感じたことはたぶん一度もなくて、むしろ短くまとめるほうが大変だっていうくらい、書くことが好きでした。
一時期詩を書くのにはまっていました。小学校3、4年生の頃に詩を取り扱う授業があって。まどみちおさんとか、いろんな方の詩を読んで自分でも書いてみよう、という授業が何回かあったんですね。それが面白くて家でもノートに書いていた時期がありました。
――読書生活はその後、どのようなものを?
小学校3年生で転機があったんです。ハリー・ポッターのシリーズ3作目となる『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が出たんです。なにかに翻訳者の松岡佑子さんの子ども向けのインタビュー記事が載っていて、読んでいたら「抽選で5名様に『ハリー・ポッターとアズカバンの囚人』が当たります」とあって。ハガキにインタビュー記事の感想を書いて送ればよかったので、ハリー・ポッターを読んだこともないのに書いて送ったら、いきなり分厚い封筒が家に送られてきて。母がびっくりして開けたら「アズカバンの囚人」が入っていたので、「しょうがないから1巻と2巻も買ってくるわ」と言って買ってきてくれました。最初は寝る前に母が分割して読み聞かせてくれて、きょうだい3人でそれを聞いていたんです。でも2巻に入ったくらいから待ちきれなくなって、私一人で読み始めて、そこから分厚くて文字ばかりの本も読めるようになりました。
――そこからどんな本を読みましたか。
子ども向けのルパンやホームズのシリーズ、江戸川乱歩の「怪人二十面相」のシリーズや、世界の名作系、日本の名作系の全集みたいなものを読む、というのが始まりました。憶えているのは『シートン動物記』、『ああ無情』、『若草物語』、『にんじん』、『赤毛のアン』、『アラビアン・ナイト』、『次郎物語』...。ひととおり家にそろっていたので、家にあった全集はほば全部読みました。
アメリカでの読書生活
――ああ、ご家族で図書館に通う生活は続いていたのですね。
小学校3年生まではそういう生活をしていたんですけれど、小4で辻堂に戻ってきて、そこからは自分で図書館に行って自分の図書カードで好きなだけ借りていました。それでルパンのシリーズを端から読んだように思います。
――この連載でお話をうかがっていると、ミステリーの原体験がルパンやホームズの方はたくさんいるんですけれど、辻堂さんくらい若い世代になると、はやみねかおるさんや漫画の『金田一少年の事件簿』だという方が一気に増えるので意外といえば意外です。
青い鳥文庫のはやみね先生の小説も読んだんですけれど、中学校以降なんですよ。たまたま、小学生の頃に自分が図書館で見ていた棚にはなかったんですよね。
――中学からはアメリカでしたっけ。
父の転勤で中学1年になってすぐにアメリカに行きました。その前からアメリカに行くことが分かっていたので、英文法だけはざーっと勉強したんですけれど、ぜんぜん単語をおぼえていないし聞き取れないし喋れないしで結構大変でした。
――となると、読む本も限られてきますよね。
英語の本はもう、学校で与えられるもので精一杯でした。でも、アメリカは移民が多い国だし、わりと英語が話せない子にも理解があって、他の授業がAとかBといった成績がつくなかで、国語の授業は「P(Pass)」というのがついて、免除してもらえたんです。最初の1年くらいは、そういう特別措置を受けていました。
で、読めるようになった頃から、学校の課題図書もみんなと一緒に読んだりするようになって。ただ、やっぱり、あんまり自発的に英語の本を読むようにはならなかったですね。
――日本語の本は入手方法が限られてくるかと思いますが、いかがでしたか。現地校のほかに日本人の生徒が通う補習校にも通っていたのでしょうか。
そうです、土曜日に補習校に通っていたんですが、私が通っていたニュージャージー補習校は親たちがボランティアでやっている図書室がものすごく充実していたんです。駐在で向こうに行っている親の中から図書委員になった人たちが予算の中で子どもに読ませたい本を購入して、補習校が開かれる時だけ本棚をロビーに出して、ちょっとした図書室ができあがるようになっていたんですね。週3冊まで借りられたので毎週借りて、「中学の棚」というのをほぼ制覇しました。むしろ、そこで日本の本を相当読んだかなっていうくらい(笑)。
向こうも車社会なので、日本みたいに子ども同士が気軽に遊びに行けなかったんです。だから結局家にいる時間が多くて、補習校で借りてきた本を毎週必ず3冊ずつ読んでは返すというのを繰り返していました。その時に、はやみねかおる先生とか、松原秀行先生のパスワードシリーズといった青い鳥文庫が「中学の棚」に並べられていて、もう片っ端から読みました。
――ああ、エンタメもいろいろ揃っていたんですね。
はい、青い鳥文庫はたくさん置かれていましたね。でもなかには、弁護士さんの自伝のような本もありました。そこで借りたのかちょっと忘れてしまいましたが、中学の時には一時期、戦争文学みたいなものをばーっと読みましたね。藤原ていさんの『流れる星は生きている』とか、山崎豊子さんの『二つの祖国』とか。『二つの祖国』は日系アメリカ人の話で、自分もまさにアメリカにいる日本人だったのですごく感情移入しながら読みました。浅田次郎先生も『日輪の遺産』とか、辺見じゅんさんのノンフィクション『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』とか、あとは荻原浩先生の『僕たちの戦争』とか。戦争文学系は自分が全然知らない話があるので、心揺さぶられました。アメリカにいるからこそ、いろいろ考えるきっかけになりましたね。
――幅広く読むなかで、自分はこういうものが好きだなとか、こういうものは苦手だなと感じるものはありましたか。
多少つまらなくても最後まで読もうとする質ではありましたね。ただ、今でも憶えているのが『竜馬がゆく』。歴史ものも、織田信長や豊臣秀吉の話など全5巻くらいのものを読んでいたんですよ。『竜馬がゆく』は確か親の薦めで読んだんですけれど、中1の時に全8巻読もうとして、なぜか、8巻の途中でやめちゃったんですよ。あと少しなのに。自分は歴史ものはそんなに好きじゃないのかもしれないと思いました。
――現地校の授業では、英語の本を読む機会があったのでは。
国語の授業では長篇1冊をドンと出されて、チャプターごとに分けて読んでいく授業になるので、英語が読めるようになった中学2年から高校1年まで何冊も授業で読みました。「P」の成績がつかなくなってはじめて読んだのが、ロイス・ローリーの『The Giver』(※『ギヴァー 記憶を注ぐ者』のタイトルで邦訳あり)。すごくSFぽい話なので、こういう本が授業の課題図書になるんだという衝撃をうけた憶えがあります。高校になるとアメリカ文学、「American Literature」という授業を履修して、『二十日鼠と人間』とか『グレート・ギャツビー』とか、『緋文字』といった本を、アメリカの歴史を学びながら読みました。あとは別の国語の授業でディケンズの『大いなる遺産』とか、『ロミオとジュリエット』とかを読みました。『ロミオとジュリエット』は原文を読まされて、親に泣きついてどうにか日本語訳を日本から送ってもらったりして、泣きながら日本語訳を読んでいました。『グレート・ギャツビー』は村上春樹先生の翻訳が出ていたので、それも読みましたし、『二十日鼠と人間』も日本語訳に助けられながら読みました。どれも大変でしたが、面白かったですね。
一時帰国で出合ったあの本
――アメリカにいたのは高1まででしたよね。帰国して、日本の学校にはすぐ馴染みましたか。
高2の時に日本の公立高校に転入しました。日本の高校は宿題がなくて天国だなと思いました(笑)。すっごく楽しかったです。アメリカの学校は1日6時間あったらどの授業も必ず宿題が出て、もう毎日ひいひい言いながらやっていたので。日本の高校は「青春」って感じでした(笑)。
ただ、アメリカに4年もいたので文化的に分からないところはありました。自分の精神年齢が日本にいた小学生の時のまんまだったりして、馴染むのに大変な時期はありました。
――読書生活は。
高1の最後、家族で日本に帰る直前に、日本の高校に転入するための面接を受けに一時帰国したんですけれど、その時に書店に湊かなえさんの『告白』がすごく積まれていて。たぶん、単行本が大ヒットしている時期だったんですよね。それを成田空港で親に買ってもらって、帰りの飛行機で読んだらめちゃくちゃはまってしまって。はじめてミステリーにはまったのがそこだったんです。それで、自分でもミステリーを構想したり書いたりもしました。
ただ、日本に帰ってきてからは、ぱったり本を読まなくなってしまったんですよね。書くのもやめたと思います。というのも、もともとアメリカには高校卒業までいる予定で、帰国生入試で日本の大学を目指すつもりだったのが、リーマンショックが起きて早く帰ることになっちゃったんです。向こうで卒業しないと帰国生の資格がなくなってしまうから、親にも「ごめんね、一般受験になっちゃう」って謝られたりして。まあ、私は日本の高校が楽しかったので全然いいんですけれど。
それで、日本に帰ってきた時に、アメリカの学校ではやらなかったことも追いつくように勉強して一般受験をしなければならないという危機感があって、趣味の読書をしていると時間が無限に奪われてしまうので自分で決めて、ぱたっと読むのをやめてしまったんです。それが2年間。
帰国してからの高校時代は、ちらっと部活に入った時期もありましたけれど、結局ほぼ勉強に時間を割いていました。日本のみんなは高1で勉強したけれどアメリカではやらなかった数学の範囲とかをずうっと勉強したりして、遅れを取り戻すのに精いっぱいで。高3になったらもう受験突入なので、本は本当に読まなかったですね。
――遅れを取り戻して東京大学に進学したんですからすごい。
最初は東京大学を目指すつもりはなかったんですけれど、危機感のままに高2の最初にすごく勉強したら、意外と追いつけてしまって。もう記憶が定かじゃないですが、本当に気合を入れて勉強したんだと思います。そこからは普通の受験勉強になったんですけれど。
――では、大学に入ってから読書生活は再開しましたか。
はい。中学くらいまではやっぱり学校なり親なり補習校なりの影響を受けて読んでいる本が多かったんですけれど、ここからはもう、本当に自分の好きな本を読むようになりました。それで、湊かなえさんの『少女』などの既刊の本や、東野圭吾さんや辻村深月さんをぱーっと読み始めて。ただ、空白の2年間があったせいか、あんまり読書量は戻りませんでした。東野さんや辻村さんは著作も多いので、おふたりの本を読んでいるだけで大学が終わった気がします。
在学中に作家デビュー
――書くことも再開したわけですよね。
高校の時に構想したり書いていたりしたものを完成させて新人賞に送ったりはしたのですが、その時は箸にも棒にもひっかからず。で、大学2年生の時にはじめて大学に入ってから構想したものがあって、それを大学3年生の終わりに発掘して続きを全部書いて出したのがデビュー作になりました。
――2014年に『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞し、改題して刊行した『いなくなった私へ』ですね。ところで、大学でミステリー研究会みたいなところに入るなど誰かと感想を語り合ったり情報交換することはしなかったのですか。
大学では、音楽サークルに入ったんです。合唱団で、軽音とミュージカルもやるような音楽サークルで。学部も法学部なので文学に全然関係なかったんです。
書くことは趣味として誰にも言わずにやっていて、読書も、まあ多少読んでいることはまわりも知っていましたけれど、読書量が戻っていたわけではないので周りには「そこそこ本が好きなのかな」というくらいにしか思われていなかったと思います。
――じゃあ、在学中にデビューが決まって、まわりは驚きましたよね。そういえば、サークルで森絵都さんの姪っ子さんとご一緒だったとか。
そうです、そうです。今でも親交はありますが、私が受賞するまで彼女も親戚に作家がいるって言わなかったので知らなかったんですよね。私が受賞してはじめて、「私のおばも作家なんです」と言われて、しかも森絵都さんだというのでびっくりしました。森さんの『カラフル』は中学時代に読んでいましたし。それで、サークルの発表の時に森さんが見に来てくださって、ご挨拶をしたりして(笑)。
――そんな作家同士の出会いもあるのかという。
しかも森絵都さんですから。本当にびっくりしました。
――ふふ。ところで、法学部に進学されたのはどうしてだったのですか。
作家になるのは夢だったんですけれど、やっぱりすぐ叶うような夢じゃないと思っていたんですよね。能力も必要だし、運も多分に影響するだろうし。家族にも昔から「作家以外の夢を見つけろ」って言われていて、それで、「小学校の学校の先生になりたい」とも言っていたんです。勉強するうちに、「東大とかも行けそうだから、文部科学省にいけば」みたいに言われて。高校の時はそれを真に受けて「ああ、もっと大きな視点から教育に関われるから、私は官僚になろう」って思ったんです。高校の先生にも誘導されていた気がしますね。「法学部か教育学部に興味があります」って言ったのに「じゃあ、文Ⅰだね」とか言われたので(笑)。で、安直に法学部に入ったんです。ただ、大学に入ってから自分には官僚は合わないと思ったので、その道はまったく選びませんでした。
先によく考えろよって感じなんですけれど、私がやりたかったことって、生徒に教えるとか、勉強を手ほどきすることだったんですよね。でも先輩の話を聞くと官僚の仕事は法律を作るとか国会の答弁を考えるとか、そういうことなので「あれ、私がやりたかった教育というのとは全然違うじゃん」ってなってしまって。法律の授業もいっぱい取りましたが、「法律自体が好き」みたいなオタク気質の学生も結構いて、まったく勝てないなと思って。法律が好きな人や勉強が好きな人が多かったので、「あ、義務感だけで勉強してきた私が官僚になれたとしても絶対に生き残れない」と思ってやめてしまいました。
――小説の新人賞の応募先として、『このミステリーがすごい!』大賞を選んだのはどうしてだったのですか。
その後活躍している方がいっぱいいる賞に応募しようと思いました。新人賞っていっぱいありますけれど、受賞しても2作目が出せない人や、その後活躍できるかどうかはその人次第みたいな賞もいっぱいあるので、できることならやっぱり知名度があるというか、過去の受賞した方々が活躍している賞に応募しよう、って。
自分が書きたかったのはミステリー系統だったので、ググっただけですが調べてみたら、昔から権威があるのは江戸川乱歩賞で、一次選考からネットに選評が掲載されてデビュー後も編集部が面倒見てくれて3冊くらいまで出せるのが『このミステリーがすごい!』大賞で。そのふたつの賞の募集の時期が全然違ったので、「じゃあ、半年に一本書いて応募していこう」と考えました。それで、最初に締切がきたのはこのミス大賞だったので、応募しました。
――それで受賞した、と。
はい。次は江戸川乱歩賞に出そうと思っていたので、思いっきり殺人事件が出てくるようなものを途中まで書いていたんですが、このミスで受賞が決まったのでお蔵入りになりました。
――いきなりミステリーを書けましたか。謎の設定とか伏線とかどんでん返しとか、プロットづくりの苦労はなかったですか。
最初にミステリーを書こうと思った高校1年生の時のプロットを読み返すと、全然ミステリーとしての体をなしてなくて、解決篇のところでいきなり新事実が出てきちゃったりしてましたね。プロットがうまく組み立てられないから、謎解きまできてごちゃごちゃしてしまうところがありました。ある程度きちんと組み立てられるようになったのは大学に入ってから、何個目かのプロットからだったと思います。でもミステリーの書き方のような本は読んでいなくて、昔読んでいたホームズや、東野圭吾さんや辻村深月さんや湊かなえさんを読んでなんとなく分かっていることのなかでやっていた感じです。だから「ノックスの十戒」のようなミステリーのルールはデビューするまで知らなかったです。逆に、デビューしてからちょっとは勉強しました。
好きな作家、好きな作品
――受賞の連絡がきたのは、就職活動を終えた後だったのですか。卒業後、就職されていますよね。
就活が終わった後での受賞でした。もう内定をいただいていたので、「このミス」の選考委員の方からも、最終選考で「この子受賞させちゃっても、もう内定とってるんじゃないか。大丈夫か」「でもとりあえず受賞させてみるか」みたいな話になったと言われた記憶があります(笑)。
受賞の連絡の時も「内定は絶対に蹴らないで、就職してくださいね」って言われて。それで、内定をもらっていた会社にも打診して、基本的には副業は駄目になっていたと思うんですが特別に許可してもらって、二足の草鞋でやっていくことになりました。
――新入社員と新人作家、同時になったわけですよね。慣れないことも多いし、大変ではなかったですか。
覚悟を決めないとできないなとは思いました。高2からの2年間勉強に集中した時みたいな感じですけれど、社会人になった4月1日から2作目の執筆を始めようと決めて、入社式の後、家に帰ってから2作目の第一行目を書き始めました。同時に始めて、会社だけに集中する社会人生活を経験しないことによって自分を追い込む、みたいなことをやっていました。
――じゃあ、本を読む時間というのは取りづらかったですか。
なかなか難しかったけれど、それでも大学生の時よりは読んでいました。作家になったのに、このままのインプットじゃ高校1年生以前の読書の記憶に頼っている部分が大きくて、それはまずいからやっぱり本を読まなきゃと思って。意識的に読むようになりました。
やっぱりミステリーが多かったですね。過去の「このミス」とかのランキングでトップにきていたもので気になる作品を読んでみたり、義理立てじゃないですけれど、このミス大賞を過去に受賞されている方の本をバーッと読んでいったりして。過去の受賞者の方々には実際にお会いする機会もあるので、まずおひとり1冊ずつ読んで、その後に大学の時の続きで東野さんや辻村さんも読みましたし。ミステリー以外では、これは今でもですが、一番好きな作家さんが荻原浩さんなので、荻原さんの本を読んだりとか。
さきほど中学生の時に荻原さんの『僕たちの戦争』を読んだと話しましたが、「あの本、すごく良かったよな」ってずっと頭に残っていて。高校の時は「荻原さんの本読みたいな」と思いながら受験勉強に集中して、大学も読書量が減っていたりしていましたが、社会人になって唐突に「そうだ、荻原さんの他の本を読まなきゃ」って思って読み始めたら、どの本も面白くて激はまりしてしまって、そこから荻原さんの本制覇みたいな感じで全作読んで。その時点で40冊くらいあったと思います。
――荻原浩さんはすごく作風が幅広いというか、ユーモラスなものからシリアスなものまで、設定も含めてなんでもありますよね。
はい、もう本当に。私が一番最初に読んだ『僕たちの戦争』が、戦争を舞台にしつつも、戦争時代に生きて徴兵された人と現代のサーファーが入れ替わっちゃうみたいな話なので、ちょっとSFもありつつ、真剣なシーンもありつつ、現代にきちゃった昔の人がいろんなことにびっくりするユーモラスなシーンもありつつで、荻原さんのいろんなところが詰まっていたんですよね。それもあって記憶に残っていたんですけれど。その本にはまったからこそ、荻原さんのシリアスなものもユーモラスなものも、どれを読んでも自分にはぴったりはまってどれもすごく面白くて。のめり込むように読みました。
――『僕たちの戦争』以外に何か挙げるとしたら、何になりますか。
一番好きなのはやっぱり、『明日の記憶』ですかね。若年性アルツハイマーのお話で、泣いてしまって大変でした。あとは、『二千七百の夏と冬』とか。縄文から弥生時代の過渡期を舞台にしていて、まさかそんな時代の本を出すとは、って。しかもそれが縄文人と弥生人の恋愛みたいなものがテーマになっているので、お互いの部族というか、仲間からは受け入れられない恋愛で。あっちはコメとかいうよく分からないものを作っているとか、あっちは野蛮な狩猟民族だ、というなかで男女が出会って、追われるように駆け落ちしてくみたいな話で、壮大な恋愛ものだなと思って。「恋愛もの」とは言われていないかもしれませんが、私はそう思って読みました。すごくお薦めです。
――東野さんと辻村さんも、選ぶのは難しいかもしれないけれど、好きな作品を挙げていただいてもいいですか。
ああ、辻村さんはもう、デビュー作の『冷たい校舎の時は止まる』です。大学生になってすぐ読んだので、主人公の高校生たちの気持ちがすごく分かる時期で、出てくる高校生たち一人一人のエピソードがいちいち胸に突き刺さりました。特殊設定も大好きでしたし。確かあの分厚い本を徹夜して一気に読んだ記憶がありますね。
――え、あれはノベルスでも上下2冊ありますよね。
そうです。でも前日の夜から読み始めて、朝の5時か6時くらいに読み終わった記憶があります。東野さんの好きな作品は、まあ「そうだよね」って感じなんですけど、『容疑者Xの献身』ですね。ひとつ挙げるとしたらそれになるかなと思います。
――謎解きも面白いけれど泣きますよね、あれは...。
そうですね。やっぱり心動かされるような話が好きなので、ミステリーだけじゃなく人間ドラマが心に迫る本が心に残っています。
兼業中に始めた通信教育
――辻堂さんは、読むのも書くのも早いほうですか。
読むのは人並みかもしれないですけれど、書くのは早いかもしれないです。ふふ。
――1年に何冊も刊行されていますよね。題材はトリック的なところからいくのか、人間ドラマのところから考えるのか、どうでしょう。いろいろだとは思いますが。
あまりトリックからいくことはないかもしれないです。やっぱり人間ドラマが好きなので、トリックというより設定とか、冒頭のインパクトあるシーンだけ思いつくとか、そういうところが多いですね。あとはテーマとか。たとえば3作目の『あなたのいない記憶』は虚偽記憶をテーマにしていますが、それは人の記憶が簡単に変わるという心理学的現象があると知って、「それで1冊ミステリーを書いてみたいな」と思ったところから始まっています。そんなふうにモチーフとするものから始めることもあります。
――それで必ず最後に「ああ、そうだったのか」という驚きを用意できるところがすごい。
必ずかは分からないですけれど、『あなたのいない記憶』の場合はそこからストーリーがきちんとできたのでよかったです。毎回ストーリーが思いつけばいいですけれど、思いつかなければそのテーマを捨てることもあります。
――いまは会社は辞めて専業になられていますよね。
はい。会社は3年ちょっと勤めて辞めました。当初は専業になろうとは思っていなかったんです。さっき「学校の先生になりたかったのに、官僚になろうとして大学に入って結局やめた」という経緯をお話ししましたが、やっぱり通信教育で教員免許取りたいなと思ったんです。
――ええっ。ただでさえ兼業中で大変なのに?
大学を卒業しているので2年間やれば免許は取れるので。会社に2年勤めた段階で「あ、やっぱり私はずっと会社員ではいたくない」と思って、「もう大学に入っちゃおう」「通信教育を並行してやっちゃおう」と思って。当時、専業になれるとは思っていなかったけれど、それなら会社員との兼業ではなくて、教員免許取って非常勤講師とかとの兼業にしようと思ったんです。それで、社会人3年目で通信教育を始めたんですよ。
――はあー。作家業もやりながらですか。
1年間だけ、会社員と作家と通信教育を同時期にやりました(笑)。社会人3年目が結構きつかったんですけれど、幸い単位とかを落とさずに大学の2年目に突入して、そうすると小学校の教員免許だったので、教育実習があるんですよね、4週間。教育実習と、介護実習で1週間あるので、さすがに会社員と並行ではやれないなと思って。結婚もたまたま同時期だったので「結婚するから辞めます」と会社には言ったんですけれど、実は教育実習のために辞めたんですよ(笑)。
本当はその次の4月から非常勤講師と作家の両方をやろうと思っていたんですけれど、連載をさせてもらえることになったりと小説のお仕事のほうの事態がちょっと変わってきて、しばらくは生活の見通しが立ちそうになったりして。教育実習は行くし免許も取るけれど、結婚もするし子どもがいつ生まれるかということもあるので、途中から、免許は取るだけとって専業でやろう、ということになりました。その後、子どもも生まれたので、免許は無事に取りましたがまだ使えていないんです。
――いま、一日の執筆時間や読書時間はどれくらいとれていますか。どんなタイムテーブルで過ごされているのかなと思って。
専業になる時に会社のフルタイムワーカーくらいはやろうと思って、平日は1日8時間仕事すると決めていたんですけれど、子どもが生まれたら8時間はちょっと無理なので、時短勤務で6時間くらいかな、と(笑)。日中は子どもの面倒をみながら6時間は仕事をして、日中子どもがおとなしくしていて仕事が終われば、子どもが寝た後は本を読んでいることもあります。あと、土日は休日と決めているので、そこが本を読む時間になっています。まあ、世話をしながらなんですけれど。
最近の選書方法と新作について
――最近はどんな本を読んでいますか。
私はTwitterをやっているんですけれど、最近Twitterを見ていて、私の本が好きだと言ってくださる方が挙げている本は私にとっても面白い、ということに気づいたんですよ。エゴサーチをすると好きな小説を10冊くらい挙げている方のツイートがたくさん出てきて、そこに挙がっている自分以外の人の本を読むことを始めました。「この作家さんはよく私の本と一緒に挙がるな」という傾向も見えてきて面白いですね。途中で、ちまちまエゴサーチするよりもフォロワーさんに直接聞いたほうが早いんじゃないかと思って、お薦めを教えてもらったりもして。そうした本を読むことにはまって、今も続行中です。
――どんな方のお名前が挙がりますか。
フォロワーさんが辻村深月さんの本も結構挙げてくださったんですけれど、それは私も既読だったりします。
お薦めしてもらってよかったと思ったのは天祢涼さんの『彼女が花を咲かすとき』で、これが本当に面白くて。お花屋さんのミステリーなんですけれど、絶妙にさらっと流してた伏線が、あ、まだあるのか、まだあるのかという感じで回収されていく感じがあって。お花屋さんミステリーとか装丁とかからの印象とはまた違う展開が来たりするんです。
ずいぶん前の本ですけれど、乾くるみさんの『スリープ』も面白かったです。乾さんは『イニシエーション・ラブ』以外読んだことがなかったんですが、読んでいないなんてもったいなかったと改めて感じました。やっぱり自分から「この作家さん」って選ぶと同じ人ばかりになりがちなので、この読書方法は自分の中で大きな変化になっています。
それとは別に、遅ればせながら高野和明さんの著作にもはまって、最近とりあえず全部読みました。
――デビュー作の『13階段』から始まり...。
そうです。『13階段』のあとに『6時間後に君は死ぬ』とか何冊かありますけれど、やっぱり『ジェノサイド』ですね。本当に、刊行された時に読んでいなかったのを後悔するくらい。もう、衝撃の連続で、何日か余韻が抜けませんでした。自分もこんな本を書きたいけれど、まだ今の自分の技量では書けないなっていう。伏線を回収したり、どんでん返しみたいなものがあったりする本が好きなんですけれど、さらに高野さんみたいに重厚なテーマを扱っていたりすると、もう好きな要素全部詰まっている感じです。
あと、ユーモラスな方向だと藤崎翔さんとか。逸木裕さんとかも好きなんですけれど、こうやって自分の最近の読書のことを人に話していると、「男性作家ばっかりだね」と言われるんだろうなと思っていて。
――ああ、いわれてみればそうですね。
自分にはないものを求めているのかもしれないです、読む時は。
――ご自身の著作に関しては、最近は『あの日の交換日記』が話題となりましたね。先生と生徒とか、夫と妻など交換日記をしている何組かが登場する連作で、それぞれの章でも全体を通しても「ああ、そうだったのか」という驚きがあって。
ありがとうございます。あれは前からやってみたかった構成でした。小学校教員の免許に興味があった時期に、小学校の担任の先生ってすごく生徒に影響を与えているはずなのに、大人になった時に忘れられがちなのかなと思ったこともきっかけです。ほんの少しでも先生に影響を受けた人たちの話が何か書けないかな、と思ったことが始まりでした。
交換日記も、モチーフとして使えたら面白いなと思ったことがあって。往復書簡とか手紙はよく出てくるんですけれど、交換日記はあんまり自分が読んだ本の中に出てきてなかったし、小学校とも親和性があるから二つをまとめたら面白い話ができるかな、と。
――小学校といえば、ご自身がよく読んでいた青い鳥文庫からも新刊を出されましたよね。小学生が活躍する『図書館B2捜査団 秘密の地下室』。学校で居場所をなくした小学6年生の少女が、近所の図書館の謎めいた"組織"と出会うという。
やっぱり自分がよく読んでいた時期があるので、児童書を出すことをは作家デビューした時から密かに持っていた目標でした。今回実現して嬉しいです。
――これはシリーズ化するのですか。
9月には第2巻が出る予定です。『図書館B2捜査団 人気占い師の闇』というタイトルで、インチキ占い師の嘘を暴いていくような話になっています。
――ああ、今後、辻堂さんの作品が初ミステリー体験だという小中学生が出てくるんでしょうね。他に今後の刊行予定は。
小学館の「きらら」で、『十の輪をくぐる』という、1964年と2020年のオリンピックを題材にした作品を連載していたんですけれど、その単行本が11月に出る予定です。オリンピックといっても物語の半分は1960年代で、2020年1月がラストシーンです。これが2020年の3月以降まで続く話だったら、大幅改稿しなくてはいけないところでした。ただ、「2020年のオリンピックはないんだよな」と思うと、自分でも連載していた時と最近ゲラを読んだ時では受け取り方が変わっていて、「もう書いていた時の気持ちには戻れないんだな」とすごく思いました。ただ、コロナウィルスによって本が意図していたものが台無しになったわけではないと思っています。