松浦理英子さんの読んできた本たち 「薔薇の奇蹟」に共感した高校時代、きっかけは「薔薇族」だった

――いちばん古い読書の記憶を教えてください。
松浦:幼稚園に上がるか上がらないかくらいの頃から、親が買ってきたディズニーの絵本を眺めていたことは憶えています。『しらゆきひめ』とか。『ジャックと豆の木』もディズニーの絵本だった気がします。その頃、まだマウスという英語を知らなかったので、ミッキーマウスはクマだと信じていたんですよ(笑)。親からネズミだと聞いて残念な気がしました。
小学校に上がる頃から漫画もよく読んでいました。いちばん好きだったのは手塚治虫の『鉄腕アトム』です。たしか光文社から毎月1冊『鉄腕アトム』のムックのような本が出ていたんですね。それを親にねだって買ってもらうのが楽しみでした。
――鉄腕アトムのどこがお好きだったのでしょう。
松浦:可愛いからです。今振り返ると、ペットや恋愛対象の可愛さではなく、可愛らしいヒト形の存在の原型のようなものとして見ていたんだと思います。それに、手塚治虫というのはやはり感性が豊かな人で、子どもながらにこちらが身体感覚で受け止める描写がたくさんあったんですね。たとえば『人工太陽球の巻』では鉄腕アトムが人工太陽球の熱に灼かれて体が溶けるんです。手足がなくなって、頭と胴体だけになるんですけれども、それがゴムのような、練った小麦粉のような触感で描かれているんですね。そのゴムのような柔らかそうな質感に惹かれてじっと見つめていました。私の五感は視覚でも嗅覚でもなく触覚が最優位なのですが、『鉄腕アトム』を読んでいた頃からその傾向があったようです。他にもアトムが高い所から落ちて手、足、頭が胴体からはずれてしまうシーンなどもあって、かわいそうなんだけれども、そういう物理的な体の変化の描写は感覚に強く訴えかけるものとしてありました。
アトムが小さくなる巻もありました。ミニアトムが活躍するんですけれども、小さくなっただけでまたこんなに可愛いんだ、と。そういう感覚の喜びを感じながら手塚治虫を読んでいました。今でも、1990年代に出た光文社文庫版の『鉄腕アトム』は全巻持っています。
――読み返したりされているのですか。
松浦:何年かに1回くらい。だから内容をこれだけ憶えているんです。
――松浦さんは愛媛県のご出身ですよね。どういう環境で育ったのですか。
松浦:愛媛県は気候が温暖なことも影響してか、基本的には人々が大人しい印象でした。小学校6年生に上がる時に徳島県に引っ越したら、人々が明るくて元気なことにびっくりした記憶があります。
愛媛県では、授業中に学校の先生が「明日は何の日か知ってるか」というようなことを訊くと、みんなそれが形式的な質問であって本当に尋ねているわけではないと分かっているから、シーンとしていたんですよ。ところが徳島に行ったらみんな口々に答えるので驚きました。どちらの気質にもいいところがあると思います。
――学校の図書室はよく利用しましたか。
松浦:図書室にも行きましたが、教室にある学級文庫をよく利用していました。みんなが要らなくなった本をそこに寄付するので結構たくさんあって、借りて帰って読むこともできました。どういうわけかうちのクラスはみんな読書が好きでした。なにかで騒ぎすぎて先生に「騒いだ罰として放課後残って1時間本を読みなさい」と言われても、みんな「わーい」って喜んで。なんの罰にもなっていませんでした。
――小学生の頃の読書では、どんな本が印象に残っていますか。
松浦:小学校2年生の時に『ジュニア版太平洋戦史 平和編 原子雲わく』を読んでショックを受け、親にねだって広島の原爆資料館に連れていってもらいました。私がアメリカに憧れたことがないのは、この本を読んだのも一因だと思います。
うちは親が古本屋で適当に子ども向けの本を買ってきていたんですが、そのなかに偕成社の子ども向けの「日本文学名作選」があって、芥川龍之介、菊池寛、森鴎外、夏目漱石などを読みました。なんであれ読んでいたい子どもでしたし、子どもの頃って暇だから、とりわけ気に入っているわけでなくても読み返すんですよ。明治大正の日本文学を繰り返し読んでいたせいだと思うんですが、デビューしてから「古い言葉を使っている」と言われました。
――松浦さんは大学生の時にデビューされたから、「若いのにこんな言葉を知っている」と思われたのでしょうね。
松浦:50代60代くらいの人に、「松浦さんは僕らが捨てていった言葉を使っている」と指摘されました。自分としては小学生の頃から身についた語彙が自然に出てくるので使っていただけなんですが。
他にも各社から出ている児童向けの全集はよく読みました。私は外国の作品のほうが好きでした。そのほうがファンタジー要素が強くて、冒険心をくすぐられたんです。キャラクターの魅力も強かった。日本の児童文学は日常的で地味なものが多いという印象を持っていました。
――外国文学で印象に残っているキャラクターは。
松浦: 強烈だったのは『メアリー・ポピンズ』じゃないかな。映画だとジュリー・アンドリュースが演じていて優しげな人なんですけれど、原作だとツンケンした、何を考えているか分からない人なんですよね。よく子どもたちが懐くなと思いましたが、惹かれるところもありました。あの本って、いろいろ変な人が出てくるじゃないですか。船のような形の家に住んで毎日「吾輩は提督である」みたいなことを叫んでいる近所の男性とか。癖のある人が出てくるところも印象に残っています。
他は、だいたい男の子が主人公のものが好きでした。女の子が主人公のものだと、古典的な少女像が描かれているのであまり感情移入できなかったです。『若草物語』のジョーは小説を書いているし、感情移入できた登場人物の一人ではあります。だからといってすごく共鳴したわけでもないです。
――ディズニーの絵本は好きだったけれど、プリンセスストーリーが好きだったわけではないんですね。
松浦:別にお姫様の生活にも憧れないし、好きではなかったですね。『小公子』などを読んでいて、小公子がおもちゃをたくさん買ってもらうエピソードなどには興奮する一方、現実の自分は買ってもらえないので、そんなに子どもに買ってやって甘やかしていいのかという疑問も持っていました。
女の子の主人公が、パーティに行くのに着る服がないといって思い煩っているようなエピソードが大嫌いで、「服なんかどうでもいいでしょ」と思っていました。『赤毛のアン』のアンのことも、髪が赤いことくらいでウジウジウジウジなにを悩んでいるんだ、って。それは作者や登場人物たちが悪いんじゃなくて、私に社会性がなかったから共感できなかったんだと思うんです。今は彼女たちの気持ちが分かるんですけど、やっぱり髪が赤いことくらいで悩まないでほしいとは思います。
赤毛のアンは気性が激しいところがありますよね。そういう性格は好きなんですけど、養ってくれている女性に髪のことを言われて怒って、足を地面に打ち付けて踏み鳴らした、という描写があって、それが異様な行為に思えてそこにも拒否感がありました。でも学校に行ってギルバートにお下げ髪をつかまれて「にんじん」とからかわれた時に、石板で彼の頭をぶん殴ったところには共感できました。私も男の子に嫌なことをされた時に反撃する女の子だったので。
あと、『あしながおじさん』が大嫌いでした。私が読み落としていることがあるんじゃないかと思って20代の頃やここ数年でも読み返したんですけれど、何遍読んでも嫌いなんです。
――なんか分かる気がしますが、嫌いポイントを教えてください。
松浦:まず、足が長いっていうところが。
――え、そこですか。
松浦:今は足の長さの良さが分かりますよ。でも当時は、ことさら足が長いと言われると、化け物みたいに思えてしまって気持ち悪かったんです。お金や物をくれる人を素敵と思う感性も私にはなかった。女性がいい教育を受けられなかった時代に、本人の努力と才能で教育を受けるチャンスを勝ち取ったことを描いた話なんでしょうけれど、子どもの頃はそういうことが分からなかったので、こんな話のどこが素敵なんだろうと思っていました。ロマンスの部分を見ればやっぱり私とは合わないですね。
――本の情報を共有するようなごきょうだいはいらっしゃったのですか。
松浦:二つ上に姉がいて、姉も読書好きだったので、親が買って来た本を二人で読んでいました。お互い漫画が好きだったので情報交換もしました。ただ、文字の本は小学生高学年くらいになるとお互い好みが食い違ってきたし、その頃にはもう私の方がマニアックな本好きになっていましたね。
――どんな漫画を読まれていたのですか。
松浦:その時々の人気漫画です。少年漫画のほうを熱心に読みました。藤子不二雄も赤塚不二夫もちばてつやも楳図かずおも好きでしたが、貝塚ひろしの将棋漫画『あばれ王将』なども忘れがたいです。少女漫画は小学生の頃は、お姫さまの話とか、自意識に悩む話とか、恋愛ものが多かったのであまり好みではなかったです。と言いつつ、それなりに読んではいます。西谷祥子の『レモンとサクランボ』や水野英子『ファイヤー!』の単行本は今も大事に持っていますし。中学生になる頃からは少女漫画も大好きになって、いわゆる24年組、大島弓子、山岸凉子、萩尾望都といった人たちの漫画を読んでいました。
――学校の国語の授業は好きでしたか。
松浦:好きという意識はなかったですが、苦痛でもありませんでした。ただ文章を書く宿題は好きだったかもしれない。最初に自分で書いた物語は、小学校1年生の時に「教科書に載っているこの話の続きを考えてみましょう」という宿題で書いたものです。先生としては教科書に載っている話をもとに、そこからどういうことが起こったかとか、登場人物たちがどういう気持ちになったのかを書いてほしかったんだと思うんです。私はそういうことも書いたけれど、まったく関係ない独自のストーリーを付け足して、嬉々としてノートに何ページも書いていました。先生も最初はすごく褒めてくれたんですけれど、だんだんうんざりしていったんじゃないでしょうか。
――どういう話だったのですか。
松浦:犬とか鶏とか、小動物が出てくる話でした。だから、私は本を読み始めた時期と書き始めた時期がそんなに離れていないんですよ。でも『つづり方兄妹―野上丹治・洋子・房雄作品集』という、作文が天才的に上手い三兄妹の本を読んで、自分はこれほど上手くはないなと思っていました。
――その後も、授業とは別に自分で物語を書いたりしていたのですか。
松浦:物語も書きましたし、漫画家にもなりたかったので、漫画的なものを描いていました。
――どんな話を書かれていたのでしょう。
松浦:あまりにもくだらないからあんまり言いたくないんですけれど...。たとえば、主人公が非常に小さくなって、周りの世界が巨大に見えてしまう話とか。でもそれは書き進めないまま終わった気がします。あとは、不良の男の子がみんなにのろまのろまと馬鹿にされている警官と友情を結ぶ話。最初は主人公もお巡りさんを馬鹿にしているんだけれど、お巡りさんの優しさに触れて友情を結ぶという。
――すごくよさそう...。
松浦:いやいや、よくないんです。うっかり人に話して馬鹿にされたことがあるんです。「なにそれ、やおい?」って。別にやおいではなかったんですけれど。
――漫画家になりたかったとのことですが、小説家は意識しなかったのですか。
松浦:いや、ずっと自分は小説家になるだろうなと思っていました。漫画とかほかのことは趣味のようなもので本質は小説家だと。デビュー作を書く頃には漫画では描けないような表現を小説でしようという意識もありました。そもそも漫画家は絵が上手くならなかったからなりようがなかったんですけど。
――振り返ってみて、どういう子どもだったと思いますか。大人しかったのか、それとも...。
松浦:愛媛県人はみんな大人しかったんですけれど、私はわりと活発なほうだったかな。幼稚園の時にいじめられていて、小学校に入ってもこのままではいじめられるから活発に振る舞おう、と思って。
――そう思って振る舞えるものなんですか。
松浦:もともと無邪気で明るい部分が自分の中にあるのにいじめられていただけだから、いじめがなくなれば活発に振る舞えたんです。でも本質は陰キャのオタクでした。
――その後はどんな本を読まれていたのでしょうか。
松浦:小学校の中学年くらいからはヘルマン・ヘッセなんかも読んでいましたね。なぜヘッセの小説はこんなに男性同士の距離が近いんだろうと思いつつ、楽しく受け入れていました。いちばん好きだったのは『デミアン』かな。あれは成長の過程で誰もが一度は通るタイプの本なので、あまり読み返すことはなかったんですけれど。
小学校高学年になると、SFも読みました。本格的なSFファンほどの愛し方はしていないと思いますが、わりとSFは好きでした。ハインラインの『大宇宙の少年』は講談社の世界文学の全集に入っていたものを読みましたね(『世界の名作図書館』第34巻)。親と本屋に行って本を買ってもらえることになって、「これがいい」って言ったんじゃなかったかな。これは中学になってからだと思いますが、スタニスワフ・レムの『泰平ヨンの航星日記』もハヤカワ・SF・シリーズの単行本で読みました。
――中学に入る頃はどちらに住んでいたのですか。
松浦:相変わらず徳島市です。中学生になると、いうほどSFは読んではいなくて、やはり純文学系が多かった。三島由紀夫が切腹したのが小学校6年生の時だったんですよ。それで三島由紀夫を知って、作品を読むようになりました。あとは太宰治や、ツルゲーネフの『はつ恋』とか。岩波文庫から出ていたマーク・トウェインの『不思議な少年』も読みましたが、何十年か後にあれは実は他の人の手が入っているという衝撃の事実を知りました。
――マーク・トウェインは『トム・ソーヤーの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』とかではなく?
松浦:それらは小学生の頃に読んでいました。『不思議な少年』は人間嫌悪が描かれた小説なんです。今ではマーク・トウェインが書いた版も翻訳が刊行されていて、買ってはいるんですけれど家の中のどこにいったか分からなくて読めていないんです。
中学生になるともうわりと大人向けのものも読んでいたので、谷崎潤一郎や大江健三郎なんかも読みました。各社が出している文庫目録ってありますよね。それを見ながら次は何を読もうかと考えるのも楽しみでした。谷崎潤一郎がどういう作家かは大体分かっていて、最初に読んだのは私のイメージ通りで自分でも面白くないんですけれども『卍』です。でも、ものすごくいいとは思わなかった。最近も読み返して、興味深いところはあるんですけれども、すごく優れた作品とは思っていないですね。あれはレズビアンどうのこうのというよりもインポテンツの青年が面白いですよね。でもあまり詳しくは描かれていないから、どういう人物かをいろいろ想像しています。私は自分の小説によくインポテンツの男性を書きますが、谷崎の書いたインポテンツの青年像を自分流に補ったり、アンサーのような形で小説にしてみたりすることも考えています。
――大江健三郎は何を読まれたのですか。
松浦:最初は『性的人間』ですね。タイトルに惹かれました。刺激がすごかったことを憶えています。同級生に「なにかスケベな本を貸して」と言われて『性的人間』を貸したら、読んで「ただ卑猥なことを書いているだけじゃないか。一体なんの意味があるんだ」って私が怒られました。
――太宰治はどうでしたか。ウジウジした登場人物がお好きではない印象なので、どのように思われたのかな、と。
松浦:最初に『人間失格』を読んで、共感したわけではないんですよ。だけど太宰って、非常に上手くこちらの弱さを突いてくるじゃないですか。そのテクニックゆえに、そんなに嫌な感じはしませんでした。他の作品もいろいろ読みましたが、だからといって、熱心な太宰のファンのように心酔することもなく。まあ、当時の自分は、大人の文学はすべて、たいして理解できなかったんでしょうね。
好きな作家がいるというよりは本を読むこと自体が好きだったんですよね。だからいまだに、「好きな作家は?」と訊かれるとちょっと困るところがあります。
――中学時代、小説は書いていたのですか。
松浦:何かしらの文章は書いていたと思いますけど、そこまででもなかったです。
――部活は何かされていたのですか。
松浦:やっているように見えないでしょう(笑)。
――はい(笑)。では、放課後は家に帰って本を読む毎日だったのでしょうか。
松浦:本を読んだり漫画を読んだり。中学高校はロックに夢中だったので、ラジオにかじりついていました。レコードは買えないからラジオで聴くんですね。映画も観ましたし、小説以外のカルチャーも好きになっていった時代です。
――どんなバンドが好きだったのですか。
松浦:あの頃はT.Rexとかですね。
――高校時代も徳島にいらしたのですか。
松浦:高校の時は香川県にいました。高校時代に、ジャン・ジュネや稲垣足穂に出合いました。それは好きと言える数少ない作家の二人です。
――足穂やジュネはどうやって見つけたのですか。
松浦:書店の棚を端から端まで舐めるように見るんですよ。そうすると、足穂だったら『少年愛の美学』というタイトルを見て、これは私が読むべき本じゃないかと思うわけです。ジュネは『薔薇の奇蹟』というタイトルに、なんかピンときました。ジュネはその頃雑誌の「ユリイカ」が特集したんじゃなかったかな(「ユリイカ」1976年2月号)。
くだらない話ですけれど、『薔薇の奇蹟』は、「薔薇族」という雑誌があったので、「薔薇」というワードに引っかかったところがあったのかもしれないです。
――高校生でいわゆるゲイ雑誌の「薔薇族」の存在を知っていたのですか。
松浦:中学生の時から知っていました。友達と回し読みしていたんです。すごく漫画が上手でかつ今でいうボーイズ・ラブ好きな同級生が一人いて、その人が先輩から「薔薇族」という本があるよと教えてもらって、本屋で買ってきたんです。あの頃はゾーニングもなくて、中学生が普通に本屋で買えました。成人指定でもなかったと思いますし。それを借りて教室のカーテンの陰に隠れて見たり、家に持ち帰ってこっそり読んだりしていました。
――ジュネと足穂はどんなところが好きだったのですか。
松浦:ジュネは永遠に思春期にとどまっているようなところですね。ネオテニーというか、決してすれっからしの大人にならない。大人が「これはもう知っている」といって適当に流すことを、ジュネはすべての瞬間に全身で体験する。いつまでも思春期の少年のように、感じやすく、純真なんですね。そういう存在の仕方がすごく好きだったし、共感できました。
足穂はちょっと違うんですよね。足穂は時間のつかみ方の感覚が独特のような気がします。横にずっと流れていくものではなくて、縦に切断しているかのような時間感覚がありますね。美少年のことを、「ゆでたまごの表面がちょっと指痕でよごれているような愁い」というような形容をするのが、今思い出してもいいなと思います。それと、足穂は女嫌いでもないですしね。「『美少女』は美少年に範を採った仮象なのだ」と言っていて、今だと「なぜ美少年を基準にして女を語るのか」というふうな批判をする人がいるかもしれませんが、高校生の私は女性である自分が引き上げられるような気がした。あんなことを言った作家ってほかにいないですよね。
足穂がよくエッセイにオスカー・ベッカーの『美のはかなさと芸術家の冒険性』を引用しているので、それを私も大学に入ってから読んだりしました。
――高校時代は、他にはどんな本をお読みになったのですか。
松浦:集英社の「世界の文学」が出始めた頃で、その洗礼も受けました。第一回配本がアラン・シリトーの『華麗なる門出/長距離走者の孤独』で、第二回はフィリップ・ロス。フィリップ・ソレルスもわりと早い時期に出ていました。毎月小遣いで買おうと思っていたんですけれども、やはりそんなにお金がないので、あまり買えませんでした。
それと、中上健次と村上龍ですね。私が高校生の時に村上龍が『限りなく透明に近いブルー』で芥川賞を受賞したんです。爆発的に売れたので田舎の本屋にはなかなか入らなくて、『性的人間』を読んで怒った友人がたまたま見つけてくれて、やっと読めました。
中上健次と村上龍の対談集が出たのは大学に入ってからだったかな(単行本は『中上健次vs村上龍-俺達の舟は、動かぬ霧の中を、纜を解いて、―』1977年刊、文庫版は改題して『ジャズと爆弾 中上健次vs村上龍』1982年刊)。単行本は、ランボーの詩からタイトルをとっているんですよね。私は単行本で読みましたが、大人の文学の読者になってからはじめて本格的に文学的な刺激を受けたのはその本だったかもしれません。主に中上健次の小説の読み方に感銘を受けました。文章そのものに対する感覚が非常に繊細で、1つの文章からさまざまなことを読み取る。自身が書く人であり読める人でもあると、こういう読み方をするんだなと思いました。私、中上健次って、芥川賞を獲った時(1976年)の記者会見の印象が非常に悪かったんですよ。「男というものはお天道様の下で汗を流して働くものだ」と言い、記者に向かって「あなたたちみたいなのは男じゃないよ」というようなことを言ったんです。そんなマッチョな男に好意を持てるわけないじゃないですか。今だったら、それは中上健次のパフォーマンスであり、自己プロデュースであり、サービスとしてそういう役割を演じていたんだと分かるんですけれども、十代の頃は真面目に受け取っちゃって、「この男は私の敵に違いない」と思いました。
といいつつも非常に世評の高い方なので気にしていたから対談本も買って、その小説の繊細な読み方に感銘を受け、以後中上健次の小説もよく読むようになりました。
――印象に残っている中上健次作品は。
松浦:『枯木灘』や『千年の愉楽』でしょうか。今の若い作家たちには想像がつかないことだと思うんですけれど、本当に80年代の中上健次の尊敬のされ方と影響力はすごいものがありました。女性の作家も非常によく読む人でしたし、中上健次に小説を読んで欲しいと思っていた後輩作家は多いんじゃないですかね。
――松浦さんは青山学院大学に進学して東京にいらしたんですよね。仏文科を専攻されたのはジュネとかの影響ですか。
松浦:そうですね。ジュネを原書で読めるようになりたいと思って入ったはずなのですが、読めるようにも話せるようにもなりませんでした。
――東京での一人暮らしはいかがでしたか。
松浦:楽しかったです。一人暮らしになるとご飯を食べながら本が読める。家族がいると行儀が悪いと言って怒られますけれど、一人暮らしだと誰にもなにも言われないので。
――本は書店で買うことが多かったのですか。
松浦:そうですね。大量に買ったわけではないですけれど、しょっちゅう近所の古本屋を覗いていました。
――在学中の1978年、「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞してデビューされていますよね。
松浦:はい。1年生が終わった春休みに書いて、2年の時に受賞しました。
――「葬儀の日」は葬式の泣き屋と笑い屋の交流を描く話です。これはどういう着想だったのでしょうか。
松浦:さきほど言った「世界の文学」シリーズなどで形式的な冒険をした小説を読んでいたので、自分も方法意識がある小説、なにか形の上で冒険したような小説、なおかつ、観念的で非日常的でありながらもある種の官能性が漂っているような小説を書きたいと思っていました。
――それまで中篇にしろ短篇にしろ、書き上げた作品はいくつもあったのですか。
松浦:ないです。高校の時は、自分が読んでいる文学作品のようなものを書こうとしても書けず、途中で投げ出していたんです。「葬儀の日」を書いた頃は、たまたまそういう体力がついていた、ということじゃないのかなと思います。
――最終選考に残ったという連絡や、受賞の連絡を受けた時はどんなお気持ちでしたか。
松浦:やっぱり嬉しかったですね。でも電話口で話した編集者に、「あまり嬉しそうじゃないですね」って言われたんです。後に自分が新人賞の選考委員をしていた時も、編集者が「受賞者に連絡します」といって出ていって、戻ってきたら「あまり嬉しそうじゃなかったです」とか言うんですよ。嬉しいに決まっているじゃないですか。なんか、若い女性タレントみたいに「わあー嬉しいです!」と言わないと喜んでいると思ってもらえないのかもしれない(笑)。
――まだ大学生の受賞者ということで注目されたと思うのですが、周囲の反応はいかがでしたか。
松浦:同級生は祝福してくれました。ただ、取材に来る大人の男性たちはこちらを侮ってくる人が多くて、ちょっと世の中が嫌いになりました。愛想よくするとなめられるような気がして、ほとんど愛想笑いをしない時期がありました。もちろん本当に面白いことがあったら笑いますけれど。その後、自分が取材する側になる経験をしてからは、相手が笑わないと怖いということがわかって、普通に愛想のある接し方をするようになりました。
――読書生活に変化はありましたか。
松浦:「文學界」が送られてくるようになったので、そこに載っている小説は全部ではないけれど、気が向くまま読んでいました。あとは編集者さんと文学に関する話ができるようになったのが楽しかったです。
やっぱり基本は外国の小説のほうが自分に合っていました。その頃は人間の激しさとか、深い部分が描けているものが好みで、日本文学だと物足りなかったんですね。どちらが優れているといった話ではなく、それはもう個人的なもので、私の狭さもあると思うんですよ。それは本を読み始めた頃から感じていたことでどうしようもないことです。
――外国文学はどのあたりを。
松浦:やっぱりジュネになっちゃうんですけれど。あとはイタリアの作家、パヴェーゼの『美しい夏』とかも好きですね。これは集英社の「世界の文学」に入っていたし晶文社からも出ていました。
フランス文学の古典なんかも日本文学にはない心理的な深みがある印象でした。ラクロの『危険な関係』とか。
――何度も形をかえて映画化されている作品ですよね。伯爵夫人が、自分を裏切った愛人に復讐するために、彼の婚約者である若い女性を自分の情人である青年子爵に誘惑させようとする。ざっくりいうと伯爵夫人と青年子爵の危険な恋愛ゲームの話です。
松浦:あの、愛情が根底にある者同士の闘いというのが私は好きなんですね。私が書いているものもそういう話が多いと思います。
――授業の一環でフランス文学を読むことも多かったのですか。
松浦:意外とそうでもないんですよ。ちょっと読み込むのはゼミくらいで、一般の専攻の授業は文法だったり作文だったりが多かったです。私は文法ができませんでしたが、訳文だけは流麗に訳すので、先生に「これはどこの訳から盗んできたんだ」って疑われたりしました。
――先ほどのロックのように、読書以外にもはまったものはありましたか。
松浦:つねに音楽がともにありました。50代くらいまでは音楽はずっと聴いていました。今はさすがに新しいものはちょっと分からなくなっているんですけれど。
――好きな音楽も変遷があるのですか。
松浦:高校に入る頃からポインター・シスターズなどを聴いていましたが、20代の半ばになるとさらにブラックミュージックを聴くようになって、プリンスと出合ったりして。白人の音楽だったらスティーヴ・ハーリイというイギリスのアーティストが好きでしたね。あとはヴェルヴェット・アンダーグラウンドとか。当時は歌詞とかインタビューも熟読していましたが、そうすると柄が悪くなりますね。
――どうして柄が悪くなるのですか(笑)。
松浦:ロック・ミュージシャンの柄が悪いからです。結構気難しい人たちで、インタビューでも言いたい放題なので。
――インタビュー記事は何で読んでいたのですか。「ロッキング・オン」とか?
松浦:高校生の頃は「ミュージック・ライフ」です。田舎だからか「ロッキング・オン」はあまり目につくところになかったかもしれません。大学に入ったら同級生たちが「ロッキング・オン」を読んでいたので、私も読むようになりました。他にも、ポピュラー音楽に関する本はよく読んでいました。
そういえば、大学に入ったら同級生たちがボーヴォワールの『第二の性』を読んでいるので、私も読まなきゃと思って読みました。女性性と呼ばれるものの多くが社会に作られているんだということを非常に明晰に論証していて、納得がいくなと思いました。今なお女性論の基本文献だと思います。
――大学生活と小説執筆の仕事の両立はできていたのですか。
松浦:大学の勉強はあまりしていなくて、授業も単位がもらえる程度に出ていた感じです。全然優秀な学生ではなく、フランス語の文法なんて単位を落として二回受けました。二回受けるとそんなに勤勉に復習しなくても自然と分かるようになって楽でした。
――卒業後は専業作家でやっていこうと思われていたのですか。
松浦:そうですね。在学中はわりとうまくいっていたので、贅沢しなければ食べていけるんじゃないかと思って就職しなかったんですけれど、そこから不遇の時期が始まったので就職すればよかったなと思いました。
――1980年に『葬儀の日』、翌年に『セバスチャン』を出された後、なかなか新刊が出ませんでしたが、そういう時期だったわけですか。
松浦:批評家の評価は高くなかったし、「なんだあいつは」と言っているような高齢の作家などもいましたし。筆が遅いからたくさん書いていたわけではないんですけれど、いくつかボツになって、何年か小説を発表できない時期がありました。
――その間、読書生活はいかがでしたか。
松浦:いろんな小説を読んではいましたが、楽しみで読むというよりは勉強みたいな感じになっていました。私自身が非常に狭い人間なので、どれが好きというのはあまりなかったかもしれません。
小説以外のノンフィクションや批評的な本も読んでいました。20代前半は心理学や精神分析の本もよく読み、性愛について思索していました。『キンゼイ・レポート』や『マスターズ・アンド・ジョンソン』『ハイト・レポート』等のアメリカの性の実態レポートや、クラフト・エビングの『変態性欲の心理』、メダルト・ボスの『性的倒錯』、男性の性的ファンタジーを調査した『メン・イン・ラヴ』など。ウィルヘルム・シュテーケルの『女性の冷感症』という本の中の「セックスは両性間の闘いである」という一文は今に至るまで非常に強く頭に残っています。そういう知識や思索の積み重ねがあるから『親指Pの修業時代』や『犬身』が書けたのだと思っています。
ナチスおよび強制収容所に関する本もよく読んでいました。発端は親の本棚にあった『アンネの日記』で、巻末の強制収容所生活の描写が非常に恐ろしかったのですが、時代の熱狂に飲まれて普通の人間が人としての道を踏み外してしまうということの恐ろしさにも強い興味があって、ナチス関連の本を読み始めた感じです。一番好きなのが『パサジェルカ(女船客)』で、映画の方を先に見たのですが、映画も小説もいいですね。強制収容所の看守である女性主人公が囚人の中に非常に心の強い権力に屈しない女性を見出して、好意を抱いて優遇したり命を救ったりもするのですが、女囚の方は全く感謝する素振りを見せない、という、感傷的な優しさを厳しく斬る作品で、私も読んで斬られた時の傷からずっと血が流れているような気がしています。
――ノンフィクション系もよく読まれていたのですね。
松浦:そうですね。その頃、読書好きと言われていた友達に会って「最近読んだ本は」という話になった時、私がクラッシュギャルズの本、相手がマッケンローの本を挙げたこともありました(笑)。
――クラッシュギャルズは一世を風靡した女子プロレスのコンビ、マッケンローは当時大人気だったテニス選手ですね。松浦さんは小説にも女子プロレスのことを書かれているし、雑誌の企画で女子プロレスラーたちにインタビューもされていますね。いつから観るようになったのですか。
松浦:1986年くらいからかな。ものすごくブームになっていたので目に入ってくるし、闘う女性が好きなので、一回観に行ってみたいなと思いました。それで仕事を絡めて観に行ったら、はまりました。でも私はクラッシュギャルズではなく、極悪同盟のほうのファンだったんですよ。
――ヒール側のユニットですね。
松浦:ブル中野のファンだったんです。クラッシュギャルズも尊敬していますけれど。
――なぜヒール側のブル中野さんに惹かれたのですか。
松浦:ヒールの悲しみっていうのがあるんですよ。どんなに傍若無人に振る舞っているように見えても、最後はベビーフェイスのクラッシュギャルズのほうを立てるのがヒールじゃないですか。そのヒールの悲しみを体現した人に見えました。フェリーニの映画に出てくるような、悲しみをたたえた風貌に見えたんです。プロレスのことを考える頭を持っていて、自分の持てる知力をフルに使ってプロレスを面白くしようとしていたプロレスラーでした。今でも、非常に偉大な人だと思っています。
――よく試合を観に行っていたんですか。というか会場ってどこなんでしょう。
松浦:後楽園ホールがプロレスの聖地と言われていますね。川崎体育館とか大宮スケートセンターとか、両国国技館でもありました。私はそんなにお金がないので、何度も行っていたわけではないです。あの頃はテレビでも毎週女子プロが放送されていたので観ることができましたし。
――小説執筆に関しては、1987年に出された3冊目の『ナチュラル・ウーマン』は話題になりましたよね。そこから環境が変わったのでしょうか。
松浦:『ナチュラル・ウーマン』を中上健次さんが褒めてくださったことで、付き合いの途絶えていた編集者が「うちでも書きませんか」と言って来たというようなことはありました。ただ、業界での評価は全然高くなかったです。
――中上健次さんが褒めてくださったというのは。
松浦:その年に第一回三島由紀夫文学賞がありまして、この本は選考対象内の期間より少し前の出版だったんですけれども、中上さんが選考委員の特別推薦として候補にしてくださったんです。選考会は中上さんだけが〇をつけて、他の選考委員は全員×だという結果に終わりまして。中上さんはそれが非常に不満だったようで、「怨念のために記す」といって、そのことを選評に書かれていました。
――『ナチュラル・ウーマン』は女性同士の恋愛や別れを描いた作品です。これは、今までと違うことを書こうと意識されて取り組んだものだったのですか。
松浦:私はあまり社会性がないので、これを書いたら人にどう思われるかをすごく気にするほうではないんです。それでも社会状況からして、書くのにためらいを全く感じないわけではなかったんですけど。まあどうせ評価されていないんだから、思い切った形で書いてみようとして書いたのが、あの小説です。
――そして、6年後の1993年に刊行された『親指Pの修業時代』も大変な評判になります。
松浦:『ナチュラル・ウーマン』は三つの連作短編ですよね。それを最初に書かせてくださったのが河出書房新社の「文藝」だったので、次に書く作品も「文藝」でと思っていたんです。けれど遅筆なのですごく待たせて業を煮やされてしまいました。それでもやっと「文藝」に『親指Pの修業時代』を連載して本にすることができて、少し売れたので、ようやく業界に一定の認知を得たという感じです。
――この作品では、足の親指がペニスになった女性の数奇な人生が描かれますよね。あの着想はどこにあったのですか。
松浦:私自身が、足の親指がペニスになる夢を見たんです。普通に両性具有になるとか、普通のしかるべき場所にそれができるとかよりも面白いことに思えました。それで、そのまま夢に出た設定を使って、かねがね性や男女関係について抱いていた疑問や批判を書くことで、大きな小説になるんじゃないかと思ったわけですね。
――大きな小説になりましたよね。女流文学賞も受賞されましたし。その後また執筆期間があいて、小説家が家賃替わりに書く短篇とそれを読む家主のコメントが交錯する『裏ヴァージョン』を発表するのが2000年、犬に姿を変えた女性が思いをよせてきた女性に飼われる『犬身』を刊行されるのが2007年です。読者としては毎回6~7年も待たされるのですが、そんなに間があくのはどうしてといいますか...。
松浦:私の脳の特性によるんじゃないですかね。脳の体力がなくて、非常に集中力が弱く、すぐに疲れる。なので一気呵成に書くという経験はないですね。純文学の作家に話を聞くと1日8枚くらい書いている人が多いんですけれど、私はそんなに書けないです。『親指Pの修業時代』の頃は1日10枚くらい書けましたけれど、30代の頃にはもう、だいたい1日4枚くらいになっていたと思います。もし1日8枚書いたら翌日疲れ果てて、結局能率が悪くなります。
――そういう時って、一日中パソコンの前に座っているんですか。
松浦:その時々によりますね。これは駄目だと思ったらパソコンから離れます。頭がだるくなるというか、筋肉痛が起きたような感じになっちゃうんです。
私はだいたい一日ひとつの用事をすると、その日が使い物にならなくなります。30代の頃は超ロングスリーパーで、1日10時間から12時間くらい寝ていたんです。だから使える時間も多くなかった。しかも夕方起きていたので、銀行とか郵便局に行こうと思うと早起きしないといけなくて。
――本を読む時間はあったのですか。
松浦:35歳をすぎると本を読む集中力も落ちますね。面白い面白くないに関係なく、疲れるので読書量は減りました。読むのも楽しみではなく、やっぱり勉強のための本が多くなりましたし。
――勉強というのは。
松浦:みなさんどういう志、どういう方法で書いているのかなっていう。やはり人の作品を読んでいないと独りよがりになってしまうという意識があるので、それはもう、頑張っていくらかでも読まなければと思っています。
――同時代の人が書いたものを読むことが多いですか。
松浦:同時代でいうと、この間まで新人文学賞の選考委員をやっていて、新しい人たちの才能に触れるのは楽しかったですね。「文学はもう終わり」みたいなことを言う人もいるようですけれど、やっぱり次々と才能のある作家は出てきているし、そんなに簡単に終わらないんじゃないかという思いを強くしています。
――ジュネと足穂は別格として、新たに好きになった作家はいませんか。
松浦:文学少女の頃は女性の作家にあまり惹かれることはなかったんですけれど、今は女性の作家も大好きです。
――具体的な作家名や作品名をおうかがいしてもよいですか。
松浦:たとえば桐野夏生さん。桐野さんはいっぱい書いていらっしゃるからどうしよう...。『メタボラ』を挙げておこうかな。不良ばかり集められた集団塾に入っていた主人公の一人がそこを脱走して、もう一人の主人公である記憶喪失の男性と出会うという。ご本人も認めていらっしゃったんですけれど、「真夜中のカーボーイ」っぽいんです。
それと、アメリカにメアリー・ゲイツキルという作家がいて、『悪いこと』という短篇集を読んだ時は、ちょっと自分と近い魂を感じました。
――どういうところに近しさを感じたのでしょう。
松浦:孤独を知っているという言い方もできるし、魂のあり方がマイナーといいますか。親密さを求めても、うまくいかず、孤独のままにいるところですかね。特別な親愛感を寄せている作家です。好きで尊敬している日本の作家はたくさんいるんですけれど、魂の近さを感じる人はいないんです。
――読書記録はつけていますか。
松浦:なにかの時に便利なので、一応、日付とタイトルと作家名と出版社くらいはつけています。感想までは書いていません。
――最近は、読む本はどうやって探していますか。書評を見るのか書店の棚を見るのか...。
松浦:書店の棚を見るのが好きだったんですけれど、よく行く町から大型書店がなくなってしまったので大変困っているんです。
――その後、『犬身』から5年後の2012年に『奇貨』、その5年後の2017年に『最愛の子ども』、さらに5年後の2022年に『ヒカリ文集』を刊行されています。
松浦:刊行の間隔が狭まっていると一部で話題になっているようです(笑)。経済的な事情もあって急いで書いています。
――『犬身』で読売文学賞、『最愛の子ども』で泉鏡花文学賞、『ヒカリ文集』で野間文芸賞と、受賞が続いていますね。改めて、おめでとうございます。
松浦:ありがとうございます。
――松浦さんの作品は初期の頃からセクシュアリティやジェンダーをひとつのテーマにしている印象もありますが、それだけではなく、いろんな要素を感じます。ご自身ではどう意識されているのかなと。
松浦:私は人間関係の多様性と可能性を書こうとしていて、その中でセクシュアリティやジェンダーが出てくるに過ぎないんです。ジェンダーそのものは私にとって非常に狭いし、ジェンダーを書こうという意識で小説を書いたことはないと思います。
――最新刊の『ヒカリ文集』は、かつての学生劇団の仲間たちが、当時劇団員だったヒカリという女性について書いた文章を集めたもの、という形式です。他の作品でも松浦さんはいつも、誰が何について語っているのか明確にされていますよね。
松浦:そうですね。例外もありますけれど、『親指Pの修業時代』の頃から、これは誰がどういう事情で書いている小説かはっきりと定めて書いていると思います。それは小説で自明とされている語り方への抵抗でもありますし、話し言葉の優位性に対する抵抗でもあります。やはり自分が書き言葉によって形成されてきた人間だという意識が強くあるんですね。話すのが苦手ですし。言葉というと多くの人が話し言葉の優位性を言うんですけれど、自分の書く小説においては、誰が誰に向ってどういう事情で書いているのかはっきりさせたうえで、すべては書き言葉である、という形で書くことにこだわりがあります。すべての作品でそれをやっているかどうかは別として。
――たとえば『最愛の子ども』は高校が舞台で、「わたしたち」という人称が使われていますが、書き手が誰なのか松浦さんの中には明確にあるのですか。
松浦:あれは裏設定としては、登場人物の一人で、文章を書くことが得意な草森恵文が書いている文章です。別に読者がそこまで考える必要はなく、作者だけが知っていればいいことですけれど。
――なるほど。では最後に、刊行予定などを教えてください。
松浦:『ヒカリ文集』の文庫が今月出たばかりです。次の刊行に関しては、早ければ年内に文芸誌に発表できるかもしれないんですけど、嘘になってもよくないので、あくまで可能性があると言うだけにとどめておきたいです。