「惚(ほ)れる」は、能動態か受動態か。形式的には能動だけど、自分でコントロールできない所からそのような気持ちが湧き上がってくる、と考えると受動のようにも思える。こうしたことは日常にあふれているけれど、うまく説明できない。
どうやらこれは中動態というらしい。能動と受動の「間」だから中動態、ではない。私たちが使っている文法の「外」にあるのだ。
あるトークイベントで、本書の著者となる國分(こくぶん)功一郎さんがこの中動態の名を高揚感とともに口にするのを聞いた。「ここからアプローチすればいろんな難しい問題が解ける気がするんです」と。
それはスピノザやデリダらの哲学と深く関係しているらしいが、今ではこの態の消息が見えなくなってしまったという。実はこのとき國分さんは「私は誰も気にかけなくなった過去の事件にこだわる刑事のような気持ちで中動態のことを想(おも)い続けていた」(本書あとがき)のである。
私もこの中動態を、医療現場で耳にする不思議な話に結び付けてひとり興奮していた。たとえば、強い意志で酒や薬をやめようとする人ほど依存症から抜けられないという話。あるいは、いつの間にか主語が自分でなく患者さんに変わってしまう看護師さんの話。
「意志」とか「主体」といった立派な言葉の外で動いている現実をこの文法用語は見事に説明して、本書は小林秀雄賞を受賞した。=朝日新聞2020年9月2日掲載