平田オリザが読む
ここで一度だけ、時間を遡(さかのぼ)らせていただきたい。
一八八四年、二十代半ばにしてシェークスピアの『ジュリアス・シーザー』の翻訳を出版した坪内逍遥は、翌八五年、評論『小説神髄』を発表する。
「小説の主脳は人情なり、世態風俗(せいたいふうぞく)これに次ぐ。(中略)人情とは人間の情慾(じょうよく)にて、所謂(いわゆる)百八煩悩是(こ)れなり」
と坪内は宣言した。これから書かれるべき小説は、勧善懲悪ではなく、人間の心理(これを坪内は人情と呼ぶ)を直接描写しなければならない。
坪内はこの年、春のやおぼろという筆名で、その主張の具現化である『当世書生気質』も発表。一躍、文壇の寵児(ちょうじ)となった。だが、残念なことに、この『当世書生気質』は、まだ近代小説の形には至らず、坪内の提示した課題は、二葉亭四迷によって批判的に継承されていく。
坪内はこのあと小説を離れ、演劇の世界へと進む。
一九〇六年、島村抱月らと文芸協会を創設。のちの新劇運動の先駆けとなる。
本来この連載の最初期に取り上げるべき坪内を後回しにしたのは、ここに理由がある。私たち劇作家からすれば、やはり彼は演劇の人だから。実際、早稲田大学演劇博物館には「坪内博士記念」の名が冠されている。
ただ、文芸協会は、あっけなく破綻(はたん)する。もともと学生劇団に毛の生えたような素人集団だったところに、島村抱月と女優松井須磨子の恋愛沙汰が絡んで組織は崩壊した。残った借財は坪内がすべてしりぬぐいする。
これを機に坪内は、演劇界の本流からも少し距離を置く。津野海太郎さんが坪内の評伝を「滑稽な巨人」と名付けたように、おそらく彼は、おっちょこちょいで、あわてんぼうだった。しかしそれは、「西洋近代」という答えを先に知ってしまっている者の悲哀でもあった。
近代文学も近代演劇も、坪内の頭の中では完成されたものだった。だが、それを実現する術(すべ)を彼は持っていなかった。=朝日新聞2020年9月5日掲載