全体主義になびく人々 排他的な空気
安倍首相が退陣を表明したとき思い出したのは、田中慎弥さんが2014年に発表した小説「宰相A」だった。まず頭文字からの連想があり、田中さんが安倍首相の地元、山口県下関市出身だとも知っていた。すぐに寄稿をお願いした。
田中さんは本紙2日付朝刊に、安倍首相は「本が読まれなくなった時代の総理大臣だった」と書いた。一方で、7年8カ月に及ぶ長期政権下にも作家たちは物語を書きつづけ、時代のなにがしかを私たち読者に問うていたのもまた事実だろう。
「宰相A」は、主人公である作家のTが母親の墓参りに行く途中、米国の占領下に置かれつづける〈もう一つの日本〉に迷い込むところから始まる。そこでは白人が「日本人」を名乗り、「旧日本人」たちは居住区に囲われ貧しく暮らす。反乱を封じるため首相のAだけは旧日本人から選ばれるが、あくまで担がれた傀儡(かいらい)にすぎない。対米追従への皮肉と読めた。
日本人は国が発行するナショナル・パスを携行し、高価な制服に身を包まなければならない。この制服を作る工場は居住区のなかにあり、給料が高いため旧日本人同士の格差と分断を生む。彼らは次第に制服と、「立派な日本人」にあこがれを抱くようになる。ここで描かれるのは、抑圧のなかで全体主義へとなびいてしまう人間の弱さだ。
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「安倍一強」の政治状況がつづくなか独裁政権を描く小説も書かれたが、中村文則さんが16年から連載し、17年に刊行した「R帝国」は独特だった。圧倒的に強い政権与党はしかし、わずかな議席を野党に譲ることで民主主義国家の体裁を保つ。中枢にいる男は「当然私達は国民がどう思おうが何でもすることができる」と語り、こうつづける。
「恐怖の独裁政権などスマートでない。我々は何かを企画する時、だからそれを国民が支持するように仕向ける。……そうしておけば我々“党”の力は長期化する。永遠に」
「抵抗」という言葉は辞書からも国民の記憶からも失われ、過去に4度の原発事故が起きたにもかかわらず、800基もの原発がつくられる。84%に上る貧困層は常に下を見ることで留飲を下げ、他民族への憎しみを募らせて日常的に繰り返される戦争にしたがう。それらがじつは仕組まれたものであるにもかかわらず。
現実の日本でもヘイトスピーチが社会問題となるなか、「排外主義者たちの夢は叶(かな)った」という衝撃的な一文で幕を開けたのは、在日韓国人3世の李龍徳(イヨンドク)さんが18~19年に連載した「あなたが私を竹槍(たけやり)で突き殺す前に」。「嫌韓」で支持を集めた日本初の女性総理大臣が誕生した近未来、韓国人の父と日本人の母を持つ主人公は絶望を語る。
「この、じわじわとした、言い訳と詭弁(きべん)ばっかりの、誰も責任を取らなくていいような、毒ガスではなくただ憎悪を募らせて空気を悪くし、マイノリティを窒息させるこの締め出し方こそ、奴らの学んだ新しいクレンジング方法だ」
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浅野いにおさんが13年に発表したマンガ「きのこたけのこ」は、こうした空気をいち早く取り込んだ寓話(ぐうわ)だ。隣国への憎悪をあおるデモを冷ややかに眺める青年が、召集に応じ非武装地域に派遣され、上官に敵国の捕虜を射殺するよう命じられる。青年は拒否し対話を試みるが、ついには引き金を引く。ここでの捕虜の言葉は、読者には読めない文字でつづられる。
最後のコマは、その一部始終をスマホで撮影していた人物が駆け去る場面だ。記録が残ることで、いつか何かが変わるきっかけになるのではないか。そこに込められた抵抗と祈りは、政府による公文書の改ざんを経て、今年の芥川賞を受賞した高山羽根子さん「首里の馬」とも響き合う。
存続が難しくなった沖縄の民俗資料館の整理を手伝う主人公の未名子は、すべての情報をデータ化し、世界の至る所でアーカイブとして保存するために奔走する。〈この島の、できる限りの全部の情報が、いつか全世界の真実と接続するように〉。抵抗と祈りの文学は、これからも系譜を連ねてゆくことだろう。(山崎聡)=朝日新聞2020年9月9日掲載