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「べてるの家の本」 汲めども尽きぬ泉のよう 医学書院・白石正明さん

 今から20年ほど前、精神科の雑誌をつくるように会社から言われた。情報収集をしていると、「北海道にえらく儲(もう)けている精神科の作業所がある」といううわさが耳に入ってきた。それが浦河(うらかわ)べてるの家だった。

 幻覚や妄想を皆の前で発表するのが売り物の「べてるまつり」には、毎年多くの観光客が北海道の過疎の町に集まるらしい。

 そんなキワモノ感に惹(ひ)かれて浦河に行ってみたら、ひどく動揺させられた。簡単に言えば、そんなはずじゃなかったのに、感動してしまったのである。

 『べてるの家の本』は、そのメンバーたちの暮らしが記された最初の本だ。自衛隊の制服を着て道路を匍匐(ほふく)前進したり、家の中で斧(おの)を振り回したり、大変な騒ぎである。そのなかに、ソーシャルワーカー向谷地生良(むかいやちいくよし)さんのこんな趣旨の言葉があった。「彼らはいつも『自立』と『社会復帰』という十字架を背負わされている」

 べてるの家の画期性とは、日々の生活を「練習」から解放して、そのままの姿でいきなり「本番」に入ってしまったことではないか。「私たちはすでに自立しているのであり社会復帰しているのだ」というミラクルな設定を採用することによって、あらゆる世俗的な意味を反転させたのではないか。それは、現実へのあまりの絶望が強いた反転なのだが――。

 私にとってべてるの家はいまだに巨大な謎である。汲(く)めども尽きぬ泉のようだ。「ケアをひらく」というシリーズは、この謎を解くための連作である。=朝日新聞2020年9月16日掲載