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「ジョージ・オーウェル」 多様な目線が磨いた自己嘲笑力 朝日新聞書評から

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2020年10月03日
ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 (岩波新書 新赤版) 著者:川端康雄 出版社:岩波書店 ジャンル:新書・選書・ブックレット

ISBN: 9784004318378
発売⽇: 2020/07/20
サイズ: 18cm/265,13p

ジョージ・オーウェル 「人間らしさ」への讃歌 [著]川端康雄

 オーウェルの代表作『動物農場』や『一九八四年』で描かれた暗い未来はもう私たちの現在だ、と世界各地で叫ばれて久しい。特定秘密保護法から改正組織的犯罪処罰法までを前政権が成立させてきたこの国も、むろん例外ではない。
 『動物農場』。農場主が動物たちを飢えさせ虐待するので、動物たちは決起し、農場の自主管理をもぎ取る。が、リーダーの豚たちは変質し「すべての動物は平等である」という憲法の条文に「しかしある動物はほかの動物よりももっと平等である」という文言を加える。粛清も言論統制も実行される。
 『一九八四年』。神格化された指導者が支配するオセアニア国は一党独裁下にある。「思考を狭(せば)め」、異議申し立ての回路を各々(おのおの)の脳内から断ち切るために開発された言語「ニュースピーク」、読書も性も私生活の隅々まで監視する「テレスクリーン」、そして、支配者にとって都合が悪い歴史の改竄(かいざん)。
 これらはソ連のスターリニズムに対する同時代的かつ根源的な批判であったことまではある程度知られている。しかし実は、その批判の地下には、彼の経験した歴史の地層が幾重にも重なっていた。彼の生涯を執念深く追い探った本書は、これらの地層も丹念に分析していて読み応えのある伝記に仕上がっている。そして彼の透徹した目と鋭い嗅覚(きゅうかく)は、天性のものというよりは時代を生きた人びとによって磨かれたことがわかったのは収穫だ。自身から拭い難いエリート性を拭い落とそうともがくオーウェルの自己嘲笑力と階級社会の欺瞞(ぎまん)の描写力は、そういった多様な目線によって、時間をかけて研磨されたものだったのだ。
 では、目線とは何か。それは植民地の住民や下層階級、スペイン内戦の塹壕(ざんごう)戦で悪戦苦闘しながら、ソ連に裏切られた義勇兵たちからの眼差しにほかならない。
 植民地インドの一地域のビルマで彼は警察官だったが民衆から軽蔑され、嘲笑されていた。その眼差しは、短編「象を撃つ」で街中で象に放った銃弾にも劣らぬ強さで「私」の宗主国根性を撃ち抜く。
 貧民窟で貧民たちと紅茶を飲む。高級レストランで皿洗いをし、厨房(ちゅうぼう)の環境の悪さに辟易(へきえき)する。ホップ摘み労働ではアリマキに手を喰われた。
 スペインで喉(のど)を撃ち抜かれたが九死に一生を得た彼は、ソ連に裏切られ幻滅する中で、歌や冗談を愛する兵士たちとの平たい人間関係を味わう。真の「社会主義」、つまり「人間らしさ」に根ざした階級のない社会の一端を垣間見る。
 頭一個抜けた上背、動物の愛好、妻の突然の死、結核との闘い。オーウェルの細部描写も魅力的で、読み終わった後、私はしばらくオーウェルロスに取り憑かれた。
    ◇
かわばた・やすお 1955年生まれ。日本女子大教授(近現代のイギリス文化、文学)。著書に『オーウェルのマザー・グース』『ウィリアム・モリスの遺(のこ)したもの』など、訳書にオーウェル著『動物農場』など。