フェルメール研究の第一人者・美術史家の小林頼子さんに会うため、編集部を出ようとしたそのときだった。2011年3月11日、東日本大震災である。本の打ち合わせはできず、数週間後にようやく会えたが、大きな懸念があった。
本書は、フェルメールの代表作「真珠の耳飾りの少女」が目玉展示の展覧会が開催される、12年に刊行する予定だったからだ。
A3サイズで、現存する全作品を紹介。最大で実物の約4倍まで拡大した部分図を数多く載せた。絵の細部や筆触、微妙な色使いまで高精細印刷で鮮明に再現し、会場で見るより間近に画家の息吹を感じられる。
しかし、原発事故の状況が刻一刻と変わる中、所蔵作品の日本への貸し出しを拒否する海外の美術館が相次いだ。「展覧会は本当に開催されるのか、そもそも美術鑑賞を楽しむ余裕が、日本にあるのだろうか」
しかし小林さんは「最善を尽くしましょう」と予定した約2倍の分量の解説原稿を書いてくれた。戦乱が続いた激動の時代に、普通の人々の日常生活を描いたフェルメールの静謐(せいひつ)な作品が生み出された経緯について記されていた。
展覧会は予定通り開催され大盛況となり、本も限定1千部を完売した。
それは、震災という未曽有の経験を経て、フェルメールの描くありふれた日常の貴重さ、美しさを、人々が改めて見いだした結果なのだと思った。=朝日新聞2020年10月7日掲載