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「砂漠が街に入り込んだ日」書評 母国語を離れて書く文学と社会

評者: いとうせいこう / 朝⽇新聞掲載:2020年10月10日
砂漠が街に入りこんだ日 著者:グカ・ハン 出版社:リトルモア ジャンル:小説

ISBN: 9784898155257
発売⽇: 2020/08/01
サイズ: 19cm/162p

砂漠が街に入り込んだ日 [著]グカ・ハン

 著者グカ・ハンは韓国人女性で、渡仏してパリ第八大学に学び、わずか六年でこの小説を書いた。ただしフランス語で。
 こうして母国語を離れて書く作家は古来少なくはなく、現代では同じようにフランス語を使うチェコのミラン・クンデラや、ドイツ語での創作を併用する多和田葉子などが想起されるのだが、今回の書物が特に興味深いのは内容以外にも、「まだ私の母国の韓国で出版されていない(著者あとがき)」ことにある。
 グカ・ハンの言語体験として、本書はまるで異なる体系の中で書かれ、異世界に解き放たれたままで、母国語にはいまだ帰還していないのだ(おそらくすぐに韓国でも出版されるだろうが、第一言語との紐帯(ちゅうたい)が切れた時間が長く存在したことに価値がある)。
 八つの短いストーリーがあり、それが影を重ねるように連なる。そこにあからさまなフランスらしい事物や韓国らしい現象は一見なく、むしろ抽象的な世界が緻密(ちみつ)に描かれている。
 ただし、どこかエッセイ的でもあるのはフランス語が強いている非物語の力なのだろうかとか考えつつ、アンチロマンに魅了されたのかもしれない若い作家の集中力に吸い込まれて読書していくと、例えばこんな箇所が突然出てくる。「三〇四人の若者ひとりひとりがあなたに黒い真珠のようなものを投げかける」
 意味を持たない数字によって文体を都会的に洗練させる手段には思えない。するとその背景にセウォル号沈没事故の暗いトラウマがふと現れ(乗客乗員の死者、行方不明者を合わせた数になる)、それまですっかり抽象絵画のように感じられていた小説が歴史的な側面をあきらかにする。
 社会を書き込んでやまないのはまさに韓国文学の優れた特質であり、フランス語で人工的に書かれたかに思える透明で硬質な小説の核心に、やはりそうした文学と社会の交差を見出(みいだ)すと強い感動が瞬間訪れる。
    ◇
 Guka Han 1987年生まれ。作家。ソウルで造形芸術を学び、2014年にパリへ移住。フランス語で小説を執筆。