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期待の行方 津村記久子

  わたしの両親は三十年以上前に離婚した。そして父親が亡くなって十年が過ぎた。ウイルス感染拡大後のこの半年で、父親以外の家族の成員の関係はわかりやすく危機を迎えた。家族間の紐帯(ちゅうたい)が試される「いざという時に」の「いざ」は、すでに起こってしまったと言える。一時代前なら試されずに済んだ運のいい家族もいるであろうことを考えると、ウイルス感染拡大という状況は、同時代にある家族にとっては運の悪いことなのかもしれない。そんな中、自分と家族について考えるうちに、やはり亡くなった父親へと問題が戻っていくことを痛感した。

 人は判断を間違えることがある。母親が父親との結婚で深く傷ついているということがこの半年で改めて判明してからは、自分が生まれたということを差し引いても、やはり母親と父親が結婚したことは間違いだったと思える。ただ幸いにして、母親は父親と離婚できた。とはいえ父親は、亡くなって十年が過ぎてもなお、その弱さと横暴さと間違いにおいて、母親の選択と家族の在り方に根深い影響を与えている。

 来月、大阪で重要な投票がある。結婚と住民投票はまったく違う。わかっているけれどもあえてたとえる。「投票」という行動には、「期待」の意図と「承認」の意図が入り交じり、投票する側とされる側の受け取り方がすれ違う側面がある。わたしの母親は、現れた男に「期待」して結婚したはずだ。わたしの父親はそれを女からの「承認」と受け取り、家族を損なった。父親にだって悪意はなかったと思う。ただ本人が思っていたほどは家庭を運営する能力がなかった。母親は、その損害から立ち直ろうとこれから努力すると話していて、それは良いことだとは思うけれども、一世代下ったわたしは差し当たっては疲れ切っている。自分の判断でないことを「なぜ?」と考えることには終わりがない。

 子の世代からの訴えは以上として、離婚できない結婚があったらしますか?=朝日新聞2020年10月14日掲載