半年間のイギリス滞在が影響
世界を股にかけて活躍する主人公といえば、漫画では『ゴルゴ13』のデューク東郷、『MASTERキートン』の平賀=キートン・太一、映画では「007」シリーズのジェームズ・ボンドと男性が主流だ。しかし、『紛争でしたら八田まで』の主人公・八田百合はサラサラのロングストレートにメガネとミニスカート姿が定番の女性。職業は地政学コンサルタントで、言語、文化、歴史、宗教、政治、経済、軍事とあらゆることを頭に詰め込んで依頼に臨むが、どこに行っても浮きまくりで“ビッチ”扱いされてしまう、という異色のキャラクターだ。こうしたキャラクターや世界を舞台にしたストーリーは、作者の田素弘さんが担当編集者と二人三脚で練り上げていったという。
「僕はあまり漫画を読まないので、『MASTERキートン』くらいは知っていたんですけど、ほかはよく知らなくて……。持ち込みをしていた頃から女性を主人公にした作品を描いていたので、急に男性を主人公にする挑戦は危険だと思ったのと、どこに行っても浮いている存在にしたかったので、女性の方がいいかなと。世界を舞台にしたい、というのは編集者からのアイデアでした」
田さんがもともと世界情勢や政治に興味があり、専門学校を卒業後に半年間イギリスに滞在していたのも、物語に大きな影響を及ぼしているという。
「親の知り合いのつながりでイギリスの語学学校に行く予定が、現地に着いて1週間くらいで飽きて学校辞めてしまったんです。そしたら授業料が全額戻ってきて、親からも『そのお金を使ってもいいからもうちょっといたら?』と言われたので、家を借りて暮らすことにしました。その時、いろんな人たちと会えたのは濃い経験になりましたね。イギリスも日本と同じ島国ですが、イギリスにはさまざまなルーツを持つ人たちが集まっていました。また、海外では国境の感覚が曖昧というか、県境のように隣り合っているところで生きている人たちとの価値観の違いに面白さを感じました。逆に言うと、海外から見ると日本が特殊だということがよく分かったんです」
「まずい料理」が結構好き
主人公の百合は、現地入りする前にその土地の言葉をマスターし、あらゆる知識を詰め込む。そして現地に着いて、仕事よりも真っ先に飛びつくのがローカルフードだ。ミャンマーでは竹蟲(たけむし)やコオロギなどの昆虫食、タンザニアではバナナのスープ「ムトリ」、ウクライナでは白チーズを使ったパンケーキの一種「シルニキ」などに舌鼓を打ちまくっている。中には躊躇しそうな食べ物もあるが、百合が美味しそうに食べているのを見ていると、読みながら非常にそそられてくる。
「最初にイギリスに行ったせいかもしれませんが、僕は結構まずいものが好きんなんです(笑)。美味しい料理ももちろん好きなんですけど、脂ぎってたりとか、くさそうだったりとか、その土地の人しか食べないようなものを見るとほっとするし、元気になれそうな気がします。だから漫画でもそういった料理をあえて探して出しています。現地のものを美味しそうに全部食べるのは、その国の人を喜ばせる行動の一つ。言葉も同じで、たとえ片言でも現地の言葉を話したら喜ばれるわけで、百合はプロとして自然にやっているんじゃないかなと思っています」
イギリスを拠点にしている百合だが、ミャンマー、タンザニア、ウクライナ、アイスランドなどと、なかなか観光で行くこともなく、ニュースで取り上げられることが少ない国がしばしば登場する。こうした国が抱える民族紛争や政治的な混乱を組み込んだストーリー展開は、どのように作られているのだろうか?
「ミャンマー紛争編はちょっと特殊で、先に百合や地政学コンサルタントのこと、地政学による紛争解決といった物語の骨格が伝わるような話を作って、それに合う国を探してミャンマーにしました。タンザニアは『とにかく引きの強い場所』ということから思いついた国です。原案を僕が作って、担当編集者さんが面白くしてくれて、監修をしてくれている東京海上日動リスクコンサルティング株式会社の川口貴久さんがリアリティを加えたり、誤りを指摘してくれたりしています」
プロレス技がアクションを派手に
原案を考える田さん自身、物語に出てくる国に取材に行っているわけではなく、情報源はインターネットや関連書籍だという。
「インターネットは何でも出てくるので、今はいい時代で本当によかったです(笑)。世界情勢や雑学などは前から好きで読んでいたので、そういうものも活かせているので、こちらも溜め込んできてよかった。各国のスラングなどは、オンライン英会話を活用しています。いろんな国の先生が登録しているので、知りたい国の先生に片っ端から聞き込んでいるんです」
田さんは日本に居ながらにして、インターネットと監修者の協力によって、ニュースでは見えてこないような、さまざまな国の紛争や衝突をリアルに描き出すことに成功している。担当編集者は、田さんの妥協のなさがそれを可能にしていると指摘する。
「海外を舞台にした話はインターネットですぐに調べられますから、昔に比べて作品の中で嘘を付きづらくなっているというのはあると思います。田さんは妥協をせずにいろいろと調べて、スラングなんかもさらっと入れる。そういうことができる人はなかなかいないですし、リアルさとストーリー展開が素晴らしい」(担当編集者)
この作品のエンターテインメントとしての面白さの最たる例として、百合のプロレス好きが挙げられる。百合は筋金入りのプロレスファンで、自らも派手なプロレス技で屈強な相手を制圧する場面が、作品を彩る魅力の一つであることは間違いない。
「僕が子供の頃はゴールデンタイムにプロレス中継がある、ギリギリの世代でした。海外のレスラー紹介のキャッチフレーズや決め台詞にはわくわくさせられました。百合が決め台詞を言ったり、プロレス技を繰り出すのはそんなところから来ているのかも。あと、実践的な格闘技って絵にすると地味なんです。それでプロレス技を採り入れてみたら、担当編集者と編集長がすごく気に入ってくれて、『もっと入れよう!』ということになりました」
描くのは苦しい、でも報われる
2019年11月に連載が始まってから1年が過ぎ、12月23日には4巻が発売された。田さんは、初の週刊連載を43歳で実現させたという遅咲きの作家でもある。それ以前はアパレル、webデザイン・ディレクションなどに携わっており、漫画を描き始めたのは30代半ばだった。
「もともと絵を描くのは好きで、このスキルを活かしたいと思って漫画を描き始めたんです。物語づくりは素人なので、脚本の書き方本などを読み漁って。でも、webの仕事をやりながらだとできないと思って仕事をやめました。36くらいで将来が決まっていない人間だったし、どうせこのままいってもという思いもあったので、自分にとっては大きな決断というほどではありませんでした」
アルバイトでwebの仕事を続けながら漫画を描いていたが、過去の仕事がいろんな場面で役に立ったと振り返る。もともとPhotoshopなどのグラフィック系ソフトを使いこなしていたため、デジタルでの作画はその延長線上にあり、「デジタルもアナログも画材の一つとしか思ってない」という。
「ずっと座って調べ物をするのも20代ではできなかっただろうし、アシスタントの方に指示をするのも社会人経験が生きています」
週刊誌での連載ということで、時折休載はあるものの、ハードな作業であることには変わりがない。
「まだまだ漫画を描くこと自体は苦しい段階で、全く楽しめていません。でも、web系の仕事は人のものをずっと作ってきたので、こうして自分の作品が形に残る分、すごく報われたような実感はあります」
今は新型コロナウイルスの影響で、海外に渡航できない状態が続いているが、『紛争でしたら八田まで』を通して、混沌とした世界の今を垣間見ることができる。世界を舞台に、無理難題を荒業込みで解決してみせる八田百合の活躍が、ますます楽しみだ。