編集者になったあと、はやく一人前になりたいと、先達による出版論をいろいろ読んだ。みすず書房の小尾俊人(おびとしと)や未来社の西谷能雄(にしたによしお)らの著書から多くを学んだが、もっとも心に響いたのは『朱筆』であった。
ペンネーム「出版太郎」を著者とするこの作品は、月刊誌「みすず」に連載した出版時評を2分冊に纏(まと)めたものである。河出書房倒産や教科書検定問題など、話題が尽きない時代のクロニクルとなっていた。
編集や営業に加え、著作権や海外事情まで、豊富な知識は出版と社会の歩みや仕組みを知るのに役立った。何より、考察と提言から編集の役割と責務を学んだ。言論出版の自由を支えるのはその多様性であり、それは量より質にこだわり、マスプロならぬミニプロを以(も)ってよしとする姿勢から築かれる。基調として響くこの「出版の根幹」を、大事にしたいと思った。
思い通りにいかない駆け出しの時期、『朱筆』の言葉に触れることで、自分の志に立ち返り、進む道を確認できた。「出版者にとっての勲章は、ひとつひとつ、代替物のない、自らが世に送り出す出版物をおいて他にない」と、著者のように堂々と言えるまでになりたいと思った。
「出版太郎」が、翻訳出版を仲介する日本ユニ・エージェンシーの創設者、宮田昇さんと知ってしばらくのち、宮田さんは2019年に他界された。時流に染まらず戦後を見渡し続けた宮田さんから、出版の来し方行く末について直接話を聞けなかったことが、残念でならない。=朝日新聞2021年1月20日掲載