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藤巻亮太の旅是好日 よい言葉は人を型にはめるより、解放する

文・写真:藤巻亮太

高校の国語の授業を思い出して

 たまたまテレビを見ていたら「NHK高校講座 国語表現」という番組が放送されていた。高校時代は古文漢文などが本当に苦手だったことを懐かしみながら視聴しているうちに、徐々に番組の中身に引き込まれていった。その回のテーマは「エッセイを読む」というもので、高校生たちが一つのエッセイを読み、感想を発表する内容であった。番組で紹介されたのは『博士の愛した数式』などで広く知られる小説家・小川洋子さんの作品『深き心の底より』に収められた「人間の哀しさ」というエッセイだ。(「あはれの記憶」のタイトルで1997年毎日新聞掲載)

 それは小川さんにとって、小説家になるある種の原体験のようなお話であった。番組終了後に自らエッセイを探して手に取り読んだのだが、私自身にとっても言葉や音楽について思いを巡らす読書となったのだ。

人間の哀しさについて

 「人間の哀しさ」は、小川さんが大人になってから出会ったあるおじいさんがもとになり、子供の頃に出会った別のおじいさんを思い出す、というエピソードで構成されるとても短いエッセイだ。あっという間に読めてしまう文章なのだが、その力強さに引き込まれた。その内容を少しだけ紹介したい。

 小川さんが大人の時の話だ。春になると広場まで自転車で筍(たけのこ)を売りにくるおじいさんがいた。ある日、筍を買おうと広場まで行ったら、その日、おじいさんは両手や首にケガをしたらしく包帯だらけの姿で筍の前に座っていた。自転車で転んだのだろうかと思いながら買い物をわずかに逡巡しているうちに、子供の頃にも同じように自転車に乗って野菜を家に売りに来たおじいさんがいたことを思い出したのだ。

 その野菜売りのおじいさんは小雨のなか、商売を終えて自転車で帰ろうとしていた。だが片足が不自由であったのか、何度も手で足を持ち上げ、それでもうまく乗れずによろめき、しまいには「乗れん」と自分をあざけるように弱々しく笑った。そしてようやく自転車にまたがりふらつきながら、その場を去っていく。そのとき売れ残った野菜はとっくに雨に濡れてしまっていた。その様子を幼き日の小川さんは部屋の窓からただただ眺めていた。そしてその晩、その光景を思い浮かべて小川さんは泣いてしまったという。

単純にかわいそうに思ったからではない。手助けすべきだったのにと後悔したわけでもない。もっと根源的な感情を揺さぶられた気がした。当時の私にとって初めての経験だった。(「人間の哀しさ」より)

全ての感情に言葉があったなら

 その光景は、幼い小川さんにとって見過ごすことのできない大きな出来事であったに違いないが、ただ泣く以外にその時の感情を表現する術がなかったのかもしれない。小川さんがそのおじいさんを通して見てしまったのは、人間の弱さであり、彼女自身が抱えもするみすぼらしさ、或いは“あはれ”という感覚ではなかったかと回想する。ただ、どんなに言葉を継ぎ足してみても、どこかその時の感覚を表現するには十分に至らないとも述べている。「人間の哀しさ」に紹介されるエピソードは、小川さんが小説を書くうえで大きなきっかけと糧の一つになったように感じた。

書くことに迷いを感じる時、野菜売のおじいさんを思い浮かべる。自分にとっての小説の意味が、あの日に隠されているような気がするからだ。(同エッセイより)

 『深き心の底より』には54編のエッセイが収められているが私自身、何度も考えさせられ、同時にはっとさせられた。人間は思っているよりもずっと複雑であり、その複雑さゆえに生きていくことは大変でもある。けれどもその底知れぬ心の深さにまで届く言葉に出会えた時に、我々は救われ喜びすら感じるのだ。よい言葉は人を型にはめるよりも、人を解放する力があるのだと改めて気付かされた。

言葉と感情の間で揺れ動いて

 私も詩を書く時は感情と言葉について真剣に悩み、その狭間で揺れ動き続ける。周りを見渡せば分かりやすい言葉や便利な言葉が溢れている。本来、感情や想いを表現するために言葉が生まれたのだとしても、実のところはその逆に、我々は言葉の型の中に自分の感情を押し込んで、そういうものだと思い込んで生きている時間も多いのではないだろうか。

 言葉というものもまた不完全なもので、感情や想いの全てを言語化することは叶わない。そして何より感情というものは言葉の枠の中に収まっておいてくれるものでもない。だからこそ矛盾するようだが、そこからはみ出る感情や、溢れ出す感情のやり場のなさのためにまた言葉は生まれる。そんな言葉がかけられたら、と私自身は葛藤している。