先日、引っ越しをした。私の場合、引っ越しで一番多い荷物は本だ。数日かけて計画的に段ボールに詰めていかないと終わらない。見積もりにやってきた引っ越し業者の人が必ず絶句する量だ。
心を無にして詰めていかねばならないのに、漫画の棚の前で時が止まる。つい、読みふける。引っ越しを期に処分しようと思うも、ページをめくってしまえば、「ああ! やっぱり手離せない!」と頭を抱えることになる。
特に中学高校と好きだった漫画は特別だ。時は止まるどころか戻ってしまう。勉強机の下に隠しこそこそと読んでいたことや、雨に濡れるとべったりした臭いになる制服の重さを思いだす。あのころ好きだった漫画の多くは、四十を過ぎた今ならば積極的には手に取らなかったであろうものが多い。十代で出会えたからこそ好きになった漫画たち。その中のひとつが望月花梨の作品だ。
望月花梨の漫画は中学生や高校生といった思春期の少年少女たちが描かれることが多い。彼らはあまり笑わない。ひと昔前の少女漫画のように薔薇をせおっていたり目の中に星があったりしない。少年漫画のように盗んだバイクで走ったり、人類存亡の危機を救ったりしない。どちらかといえば大人しい。けれど、彼らは静かに反抗している。派手でわかりやすい非行には走らないが、かといって自分を取り巻く環境にすっかり順応するわけでもなく、一見すずしい顔をしつつも秘密や自意識をひっそりと熟成させる。夜の学校に忍び込んだり、好きな子の服を隠したり、理科室で蘭を育てたりする。制服を着崩すことはないけれど、学校では見せない欲望や悩みを隠し持っている。
その密やかな雰囲気が、なんとなく学校に馴染めなかった当時の自分には居心地が良かったのだ。十代の私は望月花梨の漫画に自分を重ねていた。
なので、読み返すと、恥ずかしい。望月花梨だけでなく、十代のころに感情移入をした漫画や小説はだいたい恥ずかしい。思春期の「好き」は恥と結びついている。卒業アルバムから好きだった人の写真がでてきたときのような、書きためたポエムが見つかったときのような、叫びだしたい気分になる。それでも、やっぱり手離せなくて、またそっと本棚の奥にしまう。
それどころか、文庫版がでても、電子化しても、好きだった漫画だけはどうしても当時の本のかたちでとっておきたくなる。すっかり紙も黄ばみ、表紙の艶がなくなっても、望月花梨は「花とゆめCOMICS」の赤と青のラインが入った奇妙に軽いコミックで読みたいし、「欲望バス」のカバーは黒で、「純粋培養閲覧図」は緑のまま、通学路の景色のように頭の中に焼きついている。