僕の名前はさとし。
いま小学6年生だ。
僕の家族は、父さん、母さん、姉ちゃんと犬のサヤエンドウの4人と一匹家族。
父さんはお医者さんをしていていつも忙しいそうだ。
朝はいなくて夜は寝てから帰ってくるから、僕は父さんとなかなか話せない。
その分、高校3年生の姉ちゃんが母さんの手伝いをよくしている。
僕は、自分でいうのもなんだがクラスの中心的存在なんだ。
だって体育はいつも最高成績だからね。
体育ができるだけで人気者になれる。
あ、ちなみに国算理社はお手上げだよ。
僕の手の出すところじゃないとまで思ってる。
言い訳がましくなるからそれ以上は言わないけどね。
まぁ自己紹介はここらへんにして、これは僕が小学6年間で一番思い出に残っていることだ。
そんな僕の一番嫌いな時期がやってくる。
そう、できる限り“このこと”は母さんに言わずにいたい。
なんなら、何もなかったかのように過ぎてしまえばいいとすら思っている。
毎年やってくるが、今年が一番嫌だ。
でも今年の“そのこと”は一味違ったんだ。
「かあさーん。今日の夕飯まだぁ?」
日曜日の19時。
テレビからは美味しそうなグルメ番組の争奪戦が流れる。
ぐぅぅぅ。
僕のお腹も合唱しているように歌う。
「あらぁ。もうこんな時間やだやだ。ご飯作らなくちゃね」
母さんが重い腰をあげた。
「えーいまからぁ? 時間かかるじゃんー。腹減ったよー」
「ごめんごめん。ボーとしてたわ」
僕の母さんは最近時間がゆっくり流れている。
主婦にしては珍しいんじゃないか。
普通は一日中家事で終わっちゃうなんて日があるようだが、うちの母さんは違う。
いつも中途半端に物事が終わっているんだ。
だからうちでは、姉ちゃんがよく母さんの尻拭いをしている。
「あ、お母さん、何か手伝おっか?」
「え〜。アキ、ありがとう〜。助かるわぁ。じゃあきゅうり切ってくれる〜?」
話し方まで居眠りしそうなスピードの母さん。
相変わらずな日曜日の夜を迎える。
ようやく21時に夜ご飯が始まる。
「アキ〜、ありがとねぇ。おかげで早くできたわぁ」
「えへへ、でもお母さん、全然早くないでしょ。さとし待たせてごめんね! たくさん食べな!」
「ありがと! 腹ペコぺこだよ! 母さんなんでこんな遅いのー? 来週こそはもう少し早く作り出してよね!」
「ごめんごめん! そうしなきゃね〜」
「まぁ、さとし、いいじゃん! 作ってもらえるだけでありがたいことなんだからね!」
「はいはい」
そして次の日。
「じゃあ、母さん行ってくるよ!」
和テイストな朝食を済ますと、僕はボサボサ頭で歯を磨き急いで玄関に走る。
「ほら、そんな走りなさんな。怪我でもしたら笑い者よ〜」
母さんだけゆったりとした時間が流れているのかと思うほど優雅だ。
「はいはいー!」
僕とは大違い。
家の廊下を走らず登校できたことなんて1日もないはずだ。
「いってらっしゃい。気をつけてねぇ〜」
母の声を聞きながらドアを出る。
「おはよー、さとしー!」
「おお、おはよ!」
登校中、僕はたくさんの友達から声がかかる。
僕の自慢できることは、とにかく友達がおおい。
だから、学校は嫌いじゃない。
正門に着くと、担任の橋本先生が立っている。
「さとしぃー! おはよー! チャイムなるぞー急げ!」
月曜日から金曜日まで先生も定型文のように言ってくる。
まぁ、僕が早く登校すればいい話なんだけど。
「さとしー! いよいよ明日からだな。やだよなぁ」
「ゆうた、お前も? 俺もまっじやだ。あれいいことないもん。先生も気を使ってほしいよなあ」
ゆうたは僕の親友。
だから思ってることも毎年同じだ。
「本当だよ。男子に厳しすぎねー? 俺オヤジも出てきちゃうからたまんねーよ」
「うわっ、そりゃめんどっちぃな。毎年いい思い出ないもんなぁ。あー憂鬱だなあ」
なけなしの明日までだとしても、授業を張り切って受けてみる。
でも・・・・・・。
「さーとーしー! 起きろー!」
“わははははははは”
パッと起きると、まただ。
まーた得意の居眠りをしていた。
クラスの数人に笑われている。
「あちゃー。先生すいません」
「すいませんじゃなくて、寝なきゃいいんだよ」
橋本先生が半笑いで僕に言ってきた。
「・・・・・・はい」
最悪だ。こんな大切な時期にも関係なく僕の睡魔は襲ってくる。
今週だけでも、先生の記憶をいいものにしておきたかったのに。
僕はさらに憂鬱度を極めた。
キーンコーン カーンコーン。
「さとしー、今週の居眠りはまずいだろ」
「いやー、まじそれ。次の体育で取り返すしかないな」
「いやいや、そんな簡単に取り返せないだろうが」
毎年こんな話をゆうたとしている気がする。
小学6年間、僕たちはなんにも変わっていない。
そして魔の放課後がやってきた。
「よーし、じゃあ今週からだからなー。いまからプリントを配るから、みんな親御さんにちゃんと見せなさい」
そう言うと前からプリントが回ってきた。
「さとしー、お前明日じゃん」
「いやそうなんだよ。まじ最低。すぐの明日じゃん。ゆうたは?」
「おれは金曜日! まぁまだ猶予はあるかな」
「うらやましぃー。ま、俺は逆に明日が終われば天国だー」
そんな話をしながら帰宅していた。
そしてついに今日が来てしまった。
僕が一番嫌な日だ。
きっとまた母さんに怒られるんだろうなと。
「おはよー」
「あらさとし、おはよぉ〜」
「え? 母さん今起きたの?!」
「ごめん、どうしても二度寝しちゃってね。いま急いで朝ごはんつくるから〜」
「えーいいよ、もう! 今日は遅刻できねーんだよっ」
「えぇ〜ごめんねぇ・・・・・・」
ぼくはやや乱暴な言葉で玄関を出てしまった。
“あぁ、母さんにまた言わずに出てきちゃったなー。まぁ、帰ってすぐ言えばいっか”
そんなことを頭に浮かべながら学校に向かった。
学校に行くやいなや、橋本先生からおはようよりも早く、「さとしー。またギリギリだな。今日覚悟しとけよ〜」。
きっと母さんはこの頃、僕が朝ごはんを食べなかったこと、行ってらっしゃいを言えなかったことを後悔していただろう。
とにかく今日を乗り越えちゃえば明日からまた楽しい学校生活だ!
と僕はこの時点ではなんなら開き直っていた。
そう、僕が憂鬱でたまらなかった理由は、“家庭訪問”。
本当に嫌いだ。
先生にうちを見せるだけでも恥ずかしいのに、わざわざ部屋を見られて、母さんに遅刻のことや成績のことをコテンパに話されるんだから。
どの生徒も快く受け入れるわけにはいかない。
毎年、家庭訪問の日は父さんが早く帰ってくる。
それがまた嫌なんだ。
母さんだけならまだいいが、母さんは父さんにこれまた細かく話すもんだから、父さんの年に数回の雷が落ちるに決まっている。
「さとしー? 聞いてる?」
僕が頭で変な想像をしている横から、ゆうたが顔を覗かせてきた。
「あ! あぁ。わりぃ。どした?」
「いや、次理科だから、移動しよーぜっ」
「あ、そだな!」
もちろん勉強なんて手につかない。
まぁいつものことか。
早く帰って終わらしてしまいたいような、一生学校から出たくないような。
そして、あっという間に放課後がやってきた。
「さとし! じゃあがんばれよー!」
「おー、また明日な」
とりあえず早く帰って、母さんに先生が今日来ることを言わなきゃだと僕は走って下校した。
もちろん、家庭訪問のプリントなんて母さんには出していない。
父さんに早く帰られちゃ困るからだ。
でも毎年近所の人から聞きつけ、なんだかんだで家族中が僕が伝えるより先に知っている。
今年もそんな感じだろうと帰宅に急ぐ。
「ただいまー! 母さんー? どこー?」
ランドセルを脱ぎ捨て、母さんを呼び出す。
「母さんー?」
滅多にこの時間にいないことはない。
けど母さんが見当たらなかった。
「うわ、こんな日に限って出かけてんの?」
僕はもうすぐ来てしまう先生を頭に浮かべて焦っていた。
すると、母さんの部屋のベッドに母さんが眠っていた。
?
「なんだ、母さん寝ていたの?」
僕は母さんに近寄ると、母さんが冷たかった。
“え?”
小学生の僕にでも、全てが分かった。
母さんは息をやめている。
僕の頭には、なんの感情も入る隙間がなかった。
だって意味が分からなかった。
一瞬、目の前が停止されてからの僕の動きは異常なほど早かった。
階段をかけおり、まず父さんの携帯電話に電話をかけ、冷静に救急車を呼んだ。
こんなにたくましく動ける自分に驚いた。
朝まで、笑っていた母さん。
いや、あれは笑っていなかったのかもしれない。
僕がリビングに来た物音で、重い体を一生懸命に動かして出てきてくれたのかもしれない。
頭の中には妄想が駆け巡る。
その時、インターホンが鳴った。
先生だ。
当たり前のように家庭訪問なんか忘れていた。
あんなに忘れることができなかった憂鬱な家庭訪問も、こうなると可愛らしいもんだ。
「先生!! 母さんが・・・・・・息していないんだ」
「?! 何言ってんだ!? お母さんは?! いまどこだ?」
先生が来てからの視界は記憶がないほど、瞬間で過ぎっていったように感じた。
1人じゃなくなった瞬間、喪失感が僕を襲ったんだろう。
一瞬にして、夜だった。
「さとし? 大丈夫?」
声をかけてきたのは、姉さんだった。
「母さん。なんで」
僕が一番聞きたかった台詞だ。
「さとし、お母さんね。とってもとっても重い病気だったの。私たちには想像もできないような」
「母さんが? なんで言わなかったの? いつから? なんで?」
止まらない言葉がのどを通過した。
「2年前かな。病気が分かったのは。お母さん最近どんどん動きに時間がかかっていたりしたでしょ? あれも、病気のせいだったんだよ。さとしにはね、知らせないでほしいってそれがお母さんとの約束だったの。だから入院もしたくないって。それにもう治療の方法がなかったみたいで。いつ気を失うか分からない状態がね、ずっと続いていたの」
「姉ちゃんは知ってたの? いつか死んじゃうって」
「悲しいけどね。お母さんからお姉ちゃんなんだから覚悟しててねって、あんたがさとしと父さんのお母さんになるんだよって。毎日言われてたよ」
「でも、なんで今日なの。俺、何にも知らなかったからこんな一瞬でいなくなっちゃうの?」
「さとし。そうだよね。でもお母さんはさとしに一瞬も辛い顔させたくなかったんだよ。いっぱい笑って学校に通ってもらいたかったんだよ。お母さんの優しさ。分かってあげて?」
僕の目には耐えきれない涙の溜まり場になっていた。
涙でTシャツがびしょぬれになっていた。
「あ、これ。お母さんからさとしに残したお手紙だよ。1週間くらい前に預かっていたの。もしお母さんがいなくなったら渡してほしいって。はい」
そこには久しぶりに見る母さんの字があった。
さとしへ
さとし、ごめんね。
きっと優しい優しいさとしのことだから涙でいっぱいの顔をしているんだろうな。
さとしを悲しませてしまって、こんな母さんでごめんね。
母さんは、治らない病気になってしまいました。
もっともっとお姉ちゃんやさとしといたかったけど、仕方のないことです。
さとしは来年中学生だね。
お父さんとお姉ちゃんの言うことたくさん聞いてたくさんのお友達を作ってね。
困っている子がいたら、助けてあげるんだよ。
たくましくね。お姉ちゃんを守ってね。
そして楽しいことや辛いこと、たくさんあると思う。
でもさとしは、さとしらしく。
乗り越えられない日はないからね。
お母さんもまたさとしとサッカーしたいな。
お空から毎日さとしを見ています。
元気でね。大好きよ。
P.S.今週、家庭訪問でしょう? さとしったらまた秘密にするんだから(笑)。6年間ずっとバレバレよ〜。
母さんより
僕は手紙が涙で滲んでいくのをただただ眺めていた。
小学生活が楽しくて夢中になり、なかなか母さんとゆっくり話す時間がなかった記憶を探り出した。
母さんの、「今日は学校どうだった〜?」の質問も、「夜ご飯なにがいい?」の質問も、いつだって僕は、“わからない”と“普通”でしか返していなかった。
それでも母さんはいつも、質問してくれていた。
僕にとっての一日は、母さんにとっても一日。
だからこそ、誰かの一日も大切にしなくてはいけないんだと僕は教えてもらった気がした。
そんな母さんとの思い出が猛スピードで頭を通っていく。
あまりの早さで母はこの世を去ってしまったが、僕はきっと家庭訪問のたびに母の大切さを思い出すことだろう。
(編集部より)本当はこんな物語です!
小学校5年生の慎は北海道M市の団地で母と二人で暮らしています。映画を観に行こうとしているとき、母は突然に「私、結婚するかもしれないから」と言い出します。これまでも何人か母に恋人らしき人がいたのは知っていたけれど、結婚すると聞いたのは初めて。相手の男・慎一と慎は一緒に水族館に行ったりもしたけれど、その後、母から「結婚する」とは聞かされず・・・・・・。
「猛スピードで母は」を収録した単行本には、文学界新人賞を受けたデビュー作「サイドカーに犬」も収められています。作家の三田誠広さんはこのタイトルを見て「(散歩もままならない飼っている老)犬をサイドカーに乗せてバイクでスッ飛ばしたら、犬も喜ぶのでは」と妄想をふくらませたそうです。カレンさんの妄想、意外と本質的な想像力なのかもしれません。