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沖縄、闘いの根 記録する運動、移動する身体 琉球大学教授・阿部小涼

沖縄・金武湾を埋め立てる石油備蓄基地(CTS)の建設計画に反対する人びと=1974年、那覇市

 政権が自発的隷属を強いるコロナ禍、グローバル資本が押し付ける五輪禍のなかであるが、沖縄では今日も反軍事主義の闘いが続いている。国の安全のために住民を監視する「土地規制法」が、その不条理の地理学で標的化するのは、沖縄戦の遺骨が埋もれる土も、海も空も、軍事基地に使うことを許さず毅然(きぜん)と座り込む人びとの姿だ。座り込みは、「粛々」「着実」という権力の目論見(もくろみ)を、滞らせ、拗(こじ)らせ、闘争の時空間をこじ開けてきた。

見えぬ姿を摑む

 その思想の根に触れているのが、「いかりの岩石(いわ)に/鋼色(はがねいろ)の嘴(くちばし)を研(と)いで/画を刻み 詩を創るのだ」と宣言した新川明の詩と儀間比呂志の版画が協奏する『詩画集 日本が見える』だ。島尾敏雄はかれらを群星や彗星(すいせい)と呼んで、その移動性を捉えた。儀間は南洋移民の後、大阪に寄留し、移動の経験から沖縄を凝視した作家だった。日本を「祖国」と謳(うた)った自らの過去の抒情(じょじょう)を批判しつつ定本化されたこの詩画集は、その由来じたいが、繰り返しながら変わっていくという運動性を帯びていて古びることがない。「一コの骨でしかない両親が/生身の私の骨に触れ合う音」を聴き取る新川の詩句は、今日、土砂採掘・搬入を阻止する人びとにラディカルに継承される。

 日本や日米を眼差(まなざ)す闘いの根は、沖縄が内在化した植民地経験の批判に向かう。呉世宗(おせじょん)『沖縄と朝鮮のはざまで』(明石書店・4620円)は、見えない存在とされてきた沖縄の朝鮮人の姿を新聞記事から祈念碑まで、透徹した明晰(めいせき)さで摑(つか)み出し、その不可視化の力学を明らかにする。記録する実践そのものが運動であるという著者の慧眼(けいがん)を借りれば、慰安婦の存在を証言に切り縮めず、記録運動の担い手として対話と連帯に拓(ひら)くことが可能になる。戦場の証言は闘争となり闘争は連帯を引き寄せる。

骨が帰る場所を

 沖縄の雑誌「けーし風(かじ)」110号(2021年4月、新沖縄フォーラム刊行会議・500円)で、遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんは、遺骨とは「帰るべき権利を持った人」であり、戦場の土は「犠牲者そのものを吸い込んだ場所」だと語る。日米に動員された兵士、朝鮮・台湾から連れてこられた人びとなど、沖縄の人に限られない存在を前提としている。強要や脱出や漂泊で異郷に身を寄せてきた者たちの骨が帰るための場所を闘っているのだ。沖縄の闘争とは、闘争を脱植民地化する闘いでもある。

 この雑誌の来歴には、1970年代の沖縄で反軍事主義と生存権とを交差させた環境運動「金武湾(きんわん)を守る会」があった。守る会の傑出した個性の一人、崎原盛秀への聴き取りを、上原こずえが『一人びとりが代表 崎原盛秀の戦後史をたどる』にまとめている。崎原もまた、兄はパラオに出稼ぎに、自身は養子として大阪にやられた移動する身体だった。上原は、金武湾闘争という住民運動の分析において南洋群島の移民経験を重視しており、崎原の足跡は、一人びとりの身体を介して抵抗の思想を共有する「反権力の地図」を描くという。

 上原の解説に触発されて改めて手に取りたいのが、上野英信『眉屋私記』である。眉屋の屋号を持つ山入端(やまのは)一家の移民と離散の壮大な記録文学は、キューバ移民時代の阿波根昌鴻(あはごんしょうこう)の証言を含むことでも知られている。現在の視点で再読すれば、眉屋から眺める移動の定点観測は、炭鉱労働や移民・戦線から逃げる男たち、辻売りと呼ばれる身売り慣行のなかで別の家族のかたちを模索しようとした女たちの姿を、グローバルな労働史の綾(あや)織りに浮かび上がらせ、新たな抵抗の根の地図を描くだろう。=朝日新聞2021年6月19日掲載