描いた「コンテンツ依存」
――『あなたにオススメの』という書名は、ネット通販サイトなどのレコメンド機能から?
そうですね。通販サイトや動画配信サービスで目にする、おすすめ機能からとってます。初めて当然のように「あなたへのおすすめは~」と画面上で商品をレコメンドされた時は衝撃で。しかも選んでも選んでも、それを上回るスピードで自分の欲しいものが、向こうから先に突きつけられる。作中でも、アナログ主義の学園長がデジタル社会から我々が受け取っているものを「餌」と表現しますが、このタイトルはまさしくそんな「餌を供給される」状態のイメージです。
――「推子のデフォルト」は1児の母親である推子(おしこ)が、子供たちを等質に教育する保育園に通わせる話です。ママ友の子供が「オフライン中毒」で病院に連れていかれるシーンが印象的でした。
「推子のデフォルト」は草稿が一度ボツになってるんです。草稿では、「こぴ君ママ」という、今の私達と価値観の変わらない、子供をネット漬けにする社会はおかしい、と憤慨するママが語り手でした。でも、いざ書き進んでみると、彼女の子育てに苦悩する姿に行き詰まりを感じて。
試しに誰よりも超デジタル社会に順応している、ママ友の推子を語り手にしたら、どんどん想像が膨らんで。私にとってこぴくんママは既知の存在で、共感はできるかもしれないけれど、それでおしまいというか。対して、推子は私にとっても未知の、「新世代の母親」。自分が今持っている価値観では理解できない、知らない存在を書きたかったんです。
――推子は超小型電子機器を体内に埋め込み、複数のコンテンツを同時に貪っている。テクノロジーについてまったく節操がない人物ですね。
推子は「人間らしさだけが変わらないなんておかしい」と明言するんですが、その通りだなと思います。実際、私自身デジタル機器を使うようになって、気がついたら、人間として中身から別モノに変えられていた、という気がしていて。推子はそんな自分になんの罪悪感も戸惑いも後悔も抱いていないから、あらゆる機器を埋め込んで利便性を追求する。まさに節操がない。人はどの段階で、イキモノからモノになっていくのかな、と思いながら書き進めました。
本作は、SNSや自撮りに取り憑かれる若者達の話を書いた「本当の旅」(『静かに、ねぇ、静かに』収録)の発展系というか、系譜にあると思ってます。いつからか個人的な問題よりも、現代に生きる人間全体に今起きている変化に並々ならぬ興味を持つようになったんですよね。私達が今、共有している空気、ムードについて描きたいと思ったのがきっかけです。
――「推子のデフォルト」と「マイイベント」には連続性はあるんですか?
あります。私達に起きている変化、という意味で。推子にとっての子育てから、渇幸にとっての自然災害まで、あらゆるものをコンテンツとして消費してしまえる側面が社会全体でんどん肥大化している。「もう私はコンテンツなしでは生きていけない」。そんな感覚が通底していればいいな、と。
――『あなたにオススメの』は、いわゆるディストピア文学の系譜に連なると思うんですが、そういうジャンルの本は読んでいたんですか?
意識して読んではいないですけど、好きです。多和田葉子さんの『献灯使』や、オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』。フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』はなんとなく避けていたんですが、最近読んでみたら引き込まれた。戯曲だとカレル・チャペックの『ロボット』がありますが、どうせなら希望を持たせず、バッドエンドにしてほしいと思ったな(笑)。ディストピアものはその作者の、人間に対する俯瞰的でシビアな眼差しが注がれているのが愉しい。より痛烈なものに痺れますね。
――本谷さんは戯曲でも小説でも、タイトルに捻りがありますよね。『江里子と絶対』の「絶対」が犬の名前だと普通思わないし、『幸せ最高ありがとうマジで!』なんて、いかにも裏がありそう。三島賞を受賞した『自分を好きになる方法』は自己啓発本のパロディーみたいですね。
狙いすぎてもよくないな、と最近は思ってます。『自分を好きになる方法』は、書店でまさに自己啓発本の棚に置かれていたりしましたし(笑)。何かが言いたいのだろうけど、何が言いたいのかよくわからない。そんな按配で留めておければいいな、と思います。
受賞で「文学」に開き直れた
――本谷さんは戯曲と小説を書き続けてきましたが、書き始めたのはどちらが先でしたか?
同時です。最初に書いた小説がのちに刊行される『ほんたにちゃん』で、戯曲だと『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』。19才の時にイタリアンレストランでバイトしていたんですけど、そのふたつをお客さんの少ない時間帯に紙ナプキンの裏に書いていました。
当時、劇団を立ち上げたけどホームページにコンテンツがないから、ワープロに保存していた『ほんたにちゃん』を10回分にして載せることにしたんです。それを読んだ当時の『群像』の編集長さんが「なにか書きませんか?」と連絡をくださって。それで書き下ろしたのが『江梨子と絶対』。芝居はまったくお金にならなかったけど、小説は原稿料がもらえたんですよ。「これはすごい!」と嬉しくなって頑張って書き始めましたね。
――大江健三郎賞を受賞した短篇集『嵐のピクニック』以前と以後で、作風や創作に対する構えも大きく変わっていますよね。今作もその延長線上にあるように思えます。
そうですね。私は小説を書くようになった経緯が経緯だけに、小説というものがどういうものなのかよくわからないまま始めてしまって。とにかく見よう見まねでやってきましたが、あの辺りから「ちゃんと書かなきゃ」っていう呪縛から解放されたというか、小説というものの度量の広さを知ったというか。最近ではその感覚がさらに強まって、「どうせちゃんと書けないんだし」って開き直る境地に入り始めました。それでも「小説」は受け止めてくれるだろう、と。
芥川賞の影響も大きいです。もし受賞できてなかったら、まだ「小説とは? 文学とは?」という磁場に捕まっていたと思う。今は「文学とかよくわかんないね!」っていうスタンスで書いて、それでも小説に「内包」されてしまうのが理想です。これ絶対、小説じゃないっていうものを書いているのに、小説が「いや。それも小説じゃん」って許容してしまう。その関係を続けたい。
――『嵐のピクニック』以降、ほぼ毎回異なる書き方、異なるテーマに挑戦していますね。
自分の中で「この書き方はなんとなく分かった、じゃあ次の書き方を探してみよう」って更新しているつもりです。飽き性、ということもありますが(笑)。『嵐のピクニック』以降でひとつ変わったとすれば、語り手が特に悩まなくなったことかな。それまでは生き辛さを感じて苦しんだり、暴走したり、という人物も多かったんですが。自分は社会的弱者よりも、強者に興味があるのだ、ということに気がつきました。
――プロットは作らないそうですが、執筆の上での推進力となるものは?
冒頭の一行を書いてそれが次の一行につながって、更にそれが次の一行につながって、の繰り返しです。基本的に一行先が分からない状態をキープして執筆しています。途中で煮詰まったら、その部分はいったん空白のスペースにしておいて、新しいシーンから書いていったり。
――ちなみに、エゴサーチはしますか?
しないですね。書評や批評が載った雑誌や新聞は、編集者の方に送ってもらいますが、基本的に自分がどう言われてるかに興味がなくなっちゃって(笑)。
それよりも目の前の人、昨日、テレビの現場で別の方のメイクさんが私の小説を読んでくれたらしくて、『ねぇ、ねぇ、静かに、ねぇ』面白かったですって一生懸命感想伝えてくれたけど、嬉しかったですね。タイトル、ものすごい間違っていましたが(笑)。
小説にして空気を作り出す
――ご自身曰く「極度の恥ずかしがり屋」とのことですが、最近は2016年に飴屋法水さんとの公演で俳優として舞台に立ったほか、テレビ番組『セブンルール』に出演もしていますね。
あの舞台は飴屋法水さんに「本谷さん何で出ないの?」って一点の曇りもない目で聞かれたので、「あ、私なんで出ないんだろう? 答えられない。じゃあ出ます」って答えた、というだけなんですけど。
テレビに関してはすごく迷ったんですけど、番組のプロデューサーさんに「10年間ずっと本谷さんに出てもらいたくて、そういう番組をずっと探してた」って言われて、「あ、嬉しいな。じゃあ出ます」って。流れに任されようと思ってた時期でもありました。昔もちょくちょくテレビには出てましたけど、その時はテレビに出たくて出ているわけじゃない、っていうのを拠り所にしていたんです。でも、最近になってそれもダサいなあと思って。私が出たいとか出たくないとかどっちでもいいですよね、観てる人にとっては。
――今後こういうモチーフで書いてみたいという構想はありますか?
うーん、新刊の前に200枚ぐらい書いてやめた話があるんですけど、それは書き方や組み合わせを変えればうまくいきそうだったんです。具体的には、シェアにまつわる小説を書いてみたい。
「マイイベント」に出てくる渇幸の台詞でいちばん好きなのが、「だってシェアシェア言ってる奴らって全員なんか、妙に気持ち悪い顔しているじゃん」。渇幸はそうやって一刀両断しましたが、私は私なりにシェアの気持ち悪さを、悪意を突き抜けた次元で書いてみたいです。とはいえシェアの何が嫌なのか自分でもよく分からないから、小説にしながらその正体を掴めたらいいのかもしれない。でもまあ、本当は掴めなくてもいいんですよ。私にとって小説は、何かに答えを出すためにあるような、そんなしょぼいモンじゃないから(笑)。