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人の最奥に根づく、復讐の欲求 青来有一

イラスト・竹田明日香

「やりかえす」感情 過剰な報復と紙一重

 かたき討ちなど「やられたらやりかえす」という復讐(ふくしゅう)の物語はたくさんあります。演劇、小説、映画など設定や登場人物のバリエーションはさまざまですが、物語の基本形のひとつといっていいかもしれません。ハリウッドの娯楽映画など、不当な仕打ちを受けた主人公が敵役を追いつめ、手に汗握るアクションの果てに倒したときのカタルシスは大きく、蒸し暑く眠れない夜にはうってつけです。そういえばちょっと前、痛快な倍返しが人気の、銀行の人事抗争のテレビドラマもありました。

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 復讐の話はなんといっても単純明快でわかりやすい。傷つけられたり、侮辱されたりした敵への報復であって、非は相手にあり、正義の反撃ですから悩まなくていい。はらはらしながら復讐をどう遂げるのか、そのプロセスに熱中できます。クライマックスにはたいてい大立ち回りがあって、最後は復讐を遂げた時の喜びとすがすがしさ、満足感、一抹のむなしさなど妙味豊かに終わります。吉良の首を討ち取った赤穂浪士の一行が、江戸の庶民に見守られながら泉岳寺まで意気揚々と歩くシーンで胸にわいてくる万感の思いなどその典型かもしれません。

 ただ、「やられたらやりかえす」というのは、現実にはけっこう難しい。往々にして過剰な報復になりかねません。イスラム教の「目には目を」というのは報復の勧めではなく、過剰な報復を戒めた法ですが、「ベニスの商人」のように肉1ポンドをきっかりえぐれ、血は一滴も流してはならないと命じられたらできるはずはありません。一説では吉良邸に討ち入った赤穂浪士の負傷者は2人なのに、吉良側は15人が死亡、負傷者も23人と伝えられていて、1人の主君のかたき討ちとして正当な報復だったのか、一方的な殺戮(さつりく)ではないかと考えこんでしまいます。

 キリスト教は「目には目を」ではなく明確に「復讐するな」と説きました。新約聖書の「ローマ人への手紙」の中の「主いい給う。復讐するは我にあり、我これを報いん」というのは有名です。復讐は神がする。人間は愛しなさいと説いて、復讐を禁じたのでした。現実には国家など共同体が刑法を定め、過剰な暴力の応酬にならないように法の支配を確立していくのが歴史の流れで、個人の復讐はほとんどの社会で禁じられることになりました。

 ただ、これが国と国のレベルになると困難がつきまといます。国際司法裁判所もあり、国際法もあり、国連もありますが、なかなかうまく機能しない。国連は理事国の力関係にふりまわされ、あきらかな国際法の違反でも思うような制裁もできません。結果として国々はそれぞれ軍備を整え、「やられたらやりかえすぞ」というメッセージを互いに発して自国を守るという発想、核抑止力をはじめとする軍備の均衡に腐心することになります。「やられた」と誤解して「やりかえす」といった危うさや、あるいは攻撃のために「やられた」と捏造(ねつぞう)する危うさもないともいえません。

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 「やられたらやりかえす」という復讐の欲求は、人間に最も奥深く根づいているようですが、それから逃れることができる「やられてもやりかえさない」という物語はないかと記憶をたどり、菊池寛の「恩讐(おんしゅう)の彼方(かなた)に」を読み返しました。

 親方を殺した罪の償いに通行の難所の岩盤を手掘りでうがつひとりの僧の物語であり、彼を親のかたきと狙う息子との和解の物語でもあります。子どものころはすなおに感動したはずですが、殺される多くの名前の知れない登場人物がいたことに気づいて、なんとも複雑な思いになりました。

 罪の償いや和解など生きている者の一方的な物語ではないのか。死者たちは「復讐するは我にあり」と永遠につぶやいているのではないか……、まだまだ寝苦しい夜が続きそうです。=朝日新聞2021年8月1日掲載