イタリア語には「翻訳者とは裏切り者だ」という言葉がある。フランス語にも「不実な美女」という言葉がある。どちらも、翻訳が原文に忠実であるのは難しいという意味だ(ちなみに、フランス語の表現で女性の話になっているのは、フランス語の「翻訳」が女性名詞だから)。
どの言語も長い歴史と厚い文化を背負っているのだから、他の言語に移そうとすれば、越えられない壁にぶつかるのはやむをえない。
限界は楽しめる
でも、それって翻訳の弱点なのかな? 私はさまざまな翻訳書に触れるうちに、むしろその限界を楽しむことで、世界が大きく広がる経験ができるのではないかと思うようになった。
翻訳にとって大きな壁になるのが、時間と空間の隔たりだ。遠い世界ではるか昔に書かれたものほど、現代日本語に移すのは概して難しい。その壁を逆手に取って楽しむ本として、プラトンの『パイドロス』を挙げたい。
プラトンは泣く子も黙る古代ギリシャの大哲学者だが、実はベストセラー作家ばりの書き手でもある。さまざまな文体を縦横に使い、魅力的な題材選びで読む者を引きつける。この本も、地位も金もあるおっさんが美少年を誘惑するという「うはは」な弁論で幕を開け、読者の好奇心をわしづかみにして、「真の弁論術とは」という哲学上の重要な議論に引き込んでしまう。
時間と空間を超えてそれを可能にしてくれるのが、訳者による傍注・補注・関連地図・解説・テクスト注だ。これらを合わせると本文の何倍もの分量になる。「翻訳に注なんてダサイ」と言うなかれ。それは古代ギリシャと今日とをつなぐ、みごとな虹の架け橋なのだ。架け橋からの眺めも素晴らしいですよ!
音韻の壁を越え
翻訳のもうひとつの壁になるのが、音韻だ。「詩の翻訳は、せいぜいよくて別の詩でしかない」と言った人もいて、確かにそうも言えると思う。
でも、詩の翻訳は無意味なのかな? 音韻の壁を越えて胸を打つ作品として、ハウスマンの「シュロップシャーの若者」(『ハウスマン全詩集』所収)を挙げたい。イギリスの田園風景を背景に、若者の恋や苦悩、命の儚(はかな)さを素朴に歌い上げた作品で、イギリスの若者はこれをポケットに忍ばせて第1次世界大戦に赴いたという。史上初の大戦は、史上最悪のパンデミック、スペイン風邪が荒れ狂う舞台でもあった。戦死者の3倍にも及ぶ5千万人とも言われる死者を出し、このときは高齢者ではなく若い世代が多く犠牲になった。そしてパンデミックが収束すると、そのことは不思議なぐらい語られなくなった。語られなくなった理由が研究テーマになるぐらいなのだが、だからといって戦場の悲惨さが変わりはしない。今、コロナの時代に読み直すとき、この美しい詩に新たな色合いが加わるのを感じずにはいられない。音韻は移せなくても、詩は伝えるべきことをたくさん含んでいるのだ。
音韻が翻訳不可能なら、翻訳不要なのが数学だと思う。ガリレオは「宇宙という書物は数学の言葉で書かれている」と言ったし、われわれが宇宙人とコミュニケーションを取ろうとすれば、まず考えるのは数学だろう。
サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』は、古代ギリシャから現代まで、数学者たちのドラマを綴(つづ)っていくのだが、もしもこれが思想史や文化史の話だったら、こうはいかないと思う。少なくとも、これほど素朴に感動できるドラマにはならないだろう。翻訳の限界を意識するほどに、棒高跳びの高性能グラスポールのように、壁をふわりと越えさせてくれる数学の力を意識せずにはいられない。
そう、翻訳の限界は、私たちの視野を広げてくれるのだ。=朝日新聞2021年8月21日掲載