背徳の宇能エロスに改めて光
宇能鴻一郎といえば、「鯨神」で芥川賞を受賞した純文学作家、あるいは「……しちゃったんです」という一人称語りで有名なポルノ作家、というイメージが一般的だろう。しかし1960年代後半から70年代にかけて、つまり新進の純文学作家とポルノ小説の大家のちょうど端境にあたる時期には、背徳のエロスをテーマとした幻想的な短編を数多く執筆していた。『姫君を喰う話』は、この時期の宇能作品にあらためて光を当てる好企画である。
表題作「姫君を喰う話」にまず驚いてほしい。モツ焼き屋で隣り合わせた虚無僧姿の男が語ったのは、愛する者を失い、自ら鬼と化した武士の物語。「愛するものが死んだら、空しく埋めたり焼いたりするよりは、食べてしまいたくなるのが、そうして我が身の一部に変えたくなるのが、むしろ自然ではありますまいか」――。
人肉食というタブーを扱いながら、その筆致はあくまで哀切にして抒情的。もうもうと煙の立ち籠める飲み屋と雅やかな平安時代がシームレスにつながるという着想も相まって、一読忘れがたい衝撃をもたらす。
〈女学生〉の下着に執着する孤独な犯罪者の告白「ズロース挽歌」、母親への近親相姦的な愛着を地蔵の祟りと絡めて描いた「リソペディオンの呪い」も、豊かなストーリー性と変幻自在の語り、背徳的なテーマが融合した宇能文学の真骨頂。さらに巨鯨との死闘を神話的スケールで描いた代表作「鯨神」など、読み終える頃には、解説者・篠田節子の「宇能鴻一郎は今、再評価されるべき作家なのではないだろうか」との評価が腑に落ちているだろう。
宇能鴻一郎は戦後の異端文学を語る上では欠かせない、きわめて重要な作家である。これを機にどんどん復刊が進んでほしいものだ。
乱歩の「絶対的自由の美学」
背徳のエロスを描く作品といえば「春琴抄」などで知られる文豪・谷崎潤一郎、そして谷崎作品の熱心な読者であった江戸川乱歩の名があがるだろう。長山靖生編『江戸川乱歩 背徳幻想傑作集 人間椅子』(小鳥遊書房)は、数ある乱歩作品の中でもとりわけ〈背徳〉の色が濃い短編・エッセイを厳選したアンソロジーである。
椅子に潜んだ男が快楽を味わう「人間椅子」、戦場で手足を失った男と妻の愛欲を描いた「芋虫」のようにストレートに〝危険な愛〟をテーマにした作品もあれば、「二癈人」「目羅博士の不思議な犯罪」のように犯罪への関心興味を扱ったものもある。いずれも語り手の抱える後ろ暗い幻想が、じわじわと染み出してくるような物語である。
人形や鏡、パノラマへの愛着を綴ったエッセイは、一見おどろおどろしい乱歩ワールドが、子どもっぽい無邪気な感性から生み出されていたことを明らかにする。編者が解説で述べているとおり、乱歩の背徳行為は「絶対的自由の美学」とでもいうべきものなのだ。深夜こっそりとページを開き、危険な妄想の世界に遊んでいただきたい。
SF界の新鋭が放つ、異形の愛の物語
空木春宵『感応グラン=ギニョル』(東京創元社)はSF界の新鋭による第一短編集。乱歩の世界をそのままSFジャンルに置き換えたような、背徳的かつ官能的な5編が収録されている。
戦前の浅草を舞台にした表題作は、とりわけ乱歩テイストが濃厚だ。腕のない少女、足のない少女、盲目の少女など〈欠けたる少女〉たちによって編成される見世物一座。そこに心を持たない美少女、無花果が加わったことで物語が動き始める。けばけばしい舞台上でくり広げられる壮絶な復讐劇に、〈うつし世はゆめ、夜の夢こそまこと〉という乱歩の好んだフレーズを思い出した。表題作の続編で、美しいことが罪とされるディストピアが舞台の「Rampo Sicks」はタイトルからして乱歩へのオマージュが全開である。
そのほか、サイバーパンクSFと室町時代の遊女・地獄太夫の伝承がクロスオーバーする「地獄を縫い取る」、蛇や蛙に変貌してしまう奇病の蔓延を扱った「メタモルフォシスの籠」、吉屋信子の少女小説を下敷きに、ゾンビが徘徊する世界での愛憎を描いた「徒花物語」など、いずれ劣らぬ力作揃い。
ついSF的ガジェットや退廃的な世界観、文学作品へのオマージュに目が向きがちだが、根底にあるテーマは孤独な魂の救済であり、いずれも異形の愛の物語として読むことができる。谷崎潤一郎や江戸川乱歩、宇能鴻一郎の世界が好きなら、普段SFを読まない方にも絶対におすすめだ。