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「エリック・ホブズボーム」(上・下) 20世紀捉えた思想と感情 丹念に 朝日新聞書評から

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2021年09月04日
エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生 上 著者:木畑 洋一 出版社:岩波書店 ジャンル:伝記

ISBN: 9784000223096
発売⽇: 2021/07/08
サイズ: 22cm/283,39p

世界的歴史家エリック・ホブズボームの評伝。上は、アレクサンドリアでの誕生、ベルリンでのヒトラーの台頭の目撃、共産主義者としての活動、最初の結婚と破局など、歴史家としての道…

エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生 下 著者:木畑 洋一 出版社:岩波書店 ジャンル:伝記

ISBN: 9784000223102
発売⽇: 2021/07/08
サイズ: 22cm/320,60p

世界的歴史家エリック・ホブズボームの評伝。下は、ジャズへの傾倒と女性関係から、「売れっ子」歴史家としての活躍、スターリン批判後も共産党に留まった経緯、最期の様子と葬儀まで…

「エリック・ホブズボーム」 [著]リチャード・J.エヴァンズ

 「世界的歴史家」と何の気兼ねもなく言い表せる人物の評伝である。右派も左派も中道も彼のベストセラー『20世紀の歴史』を読まずに二〇世紀を語ることはほぼ不可能である。そもそも、この人を素通りして近現代史家になろうとする勇敢な人は世界中どこにもいないだろう。「短い二〇世紀」や「伝統の創造」などの彼の概念とともに、私も大学の講義で必ず紹介する歴史家である。
 二段組みの二巻本にぎっしり並ぶ良質な訳文に浸った一カ月は幸せだった。歴史家という職業を選んで良かったと心底思えた。定評ある現代史家エヴァンズが著者なので、筆運びも安定している。印税収入と経費のグラフもあって「ここまで暴露してもいいの?」と思わず心配になる箇所も多い。
 彼の人生は「二〇世紀史」そのものであった。ロシア革命の年(一九一七年)にアレクサンドリアでユダヤ人の家庭に生まれ、ウィーンにわたり、一四歳で孤児になる。引っ越したベルリンでの共産主義運動の高揚に心をわしづかみにされ、ヒトラーの政権掌握の年(一九三三年)にロンドンにわたる。そこで文学もマルクスも乱読し、芸術にどっぷりはまる。共産党員として運動にも関わる中で、秘密情報機関の監視下に入る。評伝の重要な史料の一つが、イギリス軍情報部第五課(MI5)の盗聴記録であることには驚いた。
 軍隊生活、結婚の失敗、共産党に心底失望しながらやめなかった経緯、匿名で書き続けたジャズ批評、二度目の結婚後に絶好調になる仕事ぶり、ブラジルで熱烈な歓迎を受け、フランスで忌避されがちな著作、自宅に集まる各国の魅力的な人びと――。彼の経験と感情が丹念に描かれ、息つく暇もない。
 西欧諸言語の卓越した能力には驚くばかり。各種書籍の乱読、仲間たちとの議論で溜(た)め込んだ膨大な知識、音楽と絵画への深い造詣(ぞうけい)。それらをひけらかさずに、流暢(りゅうちょう)かつ簡潔な英語で歴史の内奥に迫る書きっぷりは彼の代名詞だ。
 本書の魅力をもう二点。第一に、彼の盲点を見極め若手への橋渡しをしていること。博覧強記であってもサハラ以南のアフリカへの関心は薄く、女性史にも大きな意義を見いださなかった。前衛芸術とサブカルチャーへの敵意は「あからさま」だった。
 第二に、共産主義の支持を表明し矢面に立つことも恐れなかったが、教条的共産党員は容赦なく批判した彼の立ち位置を丹念に描いたこと。エヴァンズは社会民主主義者で政治的立場は異なるが、ホブズボームの思想と行動が、客観的な歴史叙述と両立しえたことに深い敬意を抱く。著者の絶妙なバランスこそが、本書を成功に導いた鍵だろう。
    ◇
Richard J.Evans  1947年生まれ。英国の歴史家。ドイツ近現代史が専門で、ケンブリッジ大近現代史欽定(きんてい)教授などを歴任。邦訳書に『歴史学の擁護』『力の追求』『第三帝国の到来』など。