「言葉は生き物」とはよく言われるが、それをいちばん感じるのは、新訳された作品を読むとき、または自分自身、新訳に取り組むときかもしれない。
新訳とは、過去に訳された名作を、著作権が切れているなどのタイミングで新たに翻訳し直したもの。言葉や言い回し、文章のリズムやテンポも新しくなるので、読めば「今度はわかる!」と感激するし、取り組めば原書を読んだ時点で「こういう話だったんだ!」と目から鱗(うろこ)が落ちたようになって、感動する。
時も国も越えて読みつがれてきた作品には、やはり胸を打つ何かがあるのだ。各国の作品を読んでいるうちに、自分の地平が広がっていくような気持ちもわいてくるし、国による作風や文章の感触のようなものが、ざっくりわかってくるのもおもしろい。すばらしい作品だと聞いていたのに、昔はよくわからなかった、読めなかったという情けなさを払拭(ふっしょく)したいという思いも、内心あったりする。
旧版の改変戻す
さて、フランスの作品の新訳で、最近印象深かった一つは『ドルジェル伯の舞踏会』だ。解説やあとがきもわかりやすく、二十歳で夭折(ようせつ)した作者ラディゲ(一九〇三~一九二三)の年譜もドラマチック。
そもそもこの作品は、ラディゲの死後、兄貴分だった詩人コクトーが、七百カ所以上も(!)手を入れて発表したとのこと。そういえば、昔読んだ邦訳版にはコクトーの「序」が付いていた。一方、新訳版は、二〇部だけ刷られたラディゲ自身の最終形から翻訳したそうで、これは画期的なことだろう。
物語は、若いドルジェル夫妻に夫の親しい友、フランソワが加わって、妻マオをめぐる三角関係が繰り広げられていくのだが、七百カ所もの言葉が生き返ったためか、新訳版では、人物の姿がそれぞれいっそうあざやかに迫ってくる。緊密に絡み合いながら進んでいく三人の心理のありさまは、まるで精緻(せいち)なバロック音楽を聴くかのようだ。
もう一つは『火の娘たち』。長く品切れになっていたところに新訳が出て、はじめて読むことができた。やはり充実した訳注や図版、解説がありがたい。精神の病に苦しんだという作者ネルヴァル(一八〇八~一八五五)の、神話や宗教の世界まで取りこむような壮大な物語や象徴的な表現も、冒険にでかけるような心持ちで読み進められる。
序文にデュマへの手紙、最後は「幻想詩篇(しへん)」、間に「アンジェリック」「シルヴィ」「ジェミー」「オクタヴィ」「イシス」「コリッラ」「エミリー」の物語があり、女性たちが恋や愛、運命に対して主体的であるのが、頼もしくも切ない。
そしてやはり、言葉から音楽が聞こえてくるようだ。全体で、組曲といったところだろうか。ラディゲの硬質な精緻さとはまた趣の異なる、のびやかで豊かな響きにつつまれる。
「言葉は生き物」
最後に日本の作品から、『あしたのことば』を挙げたい。言葉は生きていると実感させてくれる素敵な一冊で、八つの短編から成る。一つずつ違うイラストレーターの絵が付いていて、お話のはじまりは、カラーの絵。冒頭の「帰り道」は、初出が小学校六年の教科書だそうで、分類するなら児童書だ。
けれど、日ごろバリアーを張ったり蓋(ふた)をしたりしてしまいがちな大人の内面にも、きらきらとまっすぐに入ってくる物語の連続で、わたしは途中何度も涙ぐみ、かと思うと笑わされて、心が洗われたようになった。
生き物である言葉は、時代とともに少しずつ変化しながら、ときにわたしたちの心を音楽のように満たし、ときに友や大切な人のように、明日への力を与えてくれる。=朝日新聞2021年9月4日掲載