私の名前は、カオリ。
付き合って4年になる彼がいる。
3年前から私たちは同棲状態。
というか、実家暮らしな私は居心地の悪さに限界を知り、彼の家に転がり込んでいる。
彼はとても優しくて、私を大切にしてくれた。
きっと私はこの先こんな人と出会うことはない。
心から愛していた。
彼は私の同い年の24歳。
カメラアシスタントをする彼は、毎日とにかく忙しそう。
忙しくても、私との時間を作ってくれたり、どこかに連れてってくれたり、思い出もたくさんある。
1日の数分でも彼と顔を合わせられるこの生活が幸せだった。
ただ、幸せの中にも悩みはある。
私は鬱から来る過眠症で、1日のほとんどを寝てしまう。
彼には申し訳ない気持ちだが、そんな私も親身な広さで受け入れてくれていた。
◇
だが、世の中は甘くはないようで、こんな桁外れに平凡な私に、ピンチは突然襲ってきた。
「じゃあ行ってくるね。今日は夜まで師匠の手伝いあるから10時くらいに終わるよ」
「わかったぁ。はぁぁぁぁ。ごめん寝るね」
本当は、彼に行ってらっしゃいのギューや、お見送りを玄関までしてあげたいのに、どうも身体は自分じゃないかのように寝たがる。
申し訳ないと思いながら、私はまた深い深い眠りに入った。
どれぐらい寝たのだろう。
突然、耳慣れしないチャイムがなった。
ピーンポーン ピーンポーン
この家でチャイムが鳴ることは滅多にない。
"宅配便? かな。身体おもー。起きなきゃあ"
そんな考えを頭いっぱいに広げながら、体を起こした。
目の前はまだ霞切っている。
目を雑巾みたいに擦りながら一歩を玄関に動かした。
覗き穴を覗くこともうっかり忘れ、目の前に広がる玄関のドアを開けた。
「はーい」
私の目の中には真反対の、キラキラ輝きに満ちた顔を首に乗せた女性が立っていた。
見るからに、私にはない輝き。
そして、友達にもなってもらえなさそうな明るく上品な服装。
「あの、どなた様でしょうか?」
「突然ごめんなさい。私、秋野ゆりこといいます。ここ、仙鳥さんのお宅じゃないですか?」
仙鳥とは彼の苗字だ。
「あ、はい! 合っています」
「いまは留守ですか? えーっとあなたは、妹さん? じゃないですよね?」
秋野ゆりこは、鼻息を笑わせながら言ってきた。
嫌な感じだ。
「はい、違います。仙鳥ゆきおの彼女です」
私はここ10年で一番声を張った気がする。
すると、目の前の秋野ゆりこは顔色をパレットのように変えた。
目の輝きは沈み、こちらに不吉な顔を晒している。
「え? そんなわけないわよね。ちょっとお邪魔していいかしら?」
そう言うと、いいと返事する前からズカズカとリビングに入ってきた。
「あなた、いくつ?」
「24歳です」
「お名前は?」
「畑みなみです」
「ご職業は?」
「いまは、無職です」
「いつから、ここに?」
「えっと、同棲を始めてから3年くらいたちます」
秋野ゆりこからの質問攻めが続いた。
なんでこんな質問攻めをしてくるのか、なんだかきもちわるかった。
「なぜ、そんな聞くのですか?」
「あなた、しつこいわよ。とりあえず今日は帰ります」
「しつこいって・・・・・・こっちのセリフです」
私が小声で言うと、秋野ゆりこは勢いよく家を出て行った。
すごく奇妙で嫌な気持ちになった。
何だったんだあの人は。
質問攻めで結局私は、秋野ゆりこという名前しかわからなかった。
久しぶりに他人と話すと、滝に打たれたように身体が沈み、疲れを知った私は、またベッドに潜り込んだ。
そしてまた深い深い眠りにつく。
目が覚めた時には、辺りも部屋も真っ暗だった。
"やばいっ、また寝過ぎたかな? ゆきおは?!"
ドキッとした気持ちとともに脳を覚ます。
部屋を見渡すと、リビングの明かりがついていてゆきおはパソコンに向かってカタカタと指を使っていた。
「ゆきお、おかえりなさい。ごめんね、ご飯もつくらず・・・・・・」
ゆきおは私の声に気付かないほど集中しているようだ。
私は近付き、ゆきおの肩に手をおいた。
「あぁカオリ。起きた?」
「また寝過ぎちゃった。ごめん。ゆきお今日ね・・・・・・」
「ごめん! これ今日中に仕上げなきゃなんないから話は今度にしてほしい」
仕事に多忙なゆきおにこれを言われるのはもう235回目だ。
慣れたもん。
でも今日きた、秋野ゆりこについては今まで史上一番きいてほしかった。
だけど、何のお手伝いも家事もしない私と何も言わずに同棲してくれてるゆきおに、これ以上重荷になるのは嫌だった。
そして、気付けば私はまた深い眠りに旅立っていた。
◇
眩しい。
そんな事を強く感じた朝だった。
私の横には、もうシーツがクシャついていて、枕はさっきまで寝てたであろう、頭の形がかたどられていた。
でもゆきおの姿はもうなかった。
"なんだ、ゆきおもう出ちゃったのか〜。話したかったな"
秋野ゆりこの正体をはやくゆきおに相談したいのに、なかなかゆきおに話せない。
ただただ気になる気持ちを膨らましながら長い1日が今日も私を迎える。
今日はなんだか眠くなかった。
なぜだろう、秋野ゆりこが頭を巡る。
ピーンポーン
「はっ!!!」
私はいつの間にか眠っていたみたいだ。
あんなに考え事をしていたのに。
珍しくダイニングテーブルに肘をつき寝ていたようだ。
私は急いで、インターホンで知らせたドアに急ぐ。
「はいっ!」
そう言いながら出るとそこには、私の頭を悩ます秋野ゆりこがいた。
"またきた!"
内心少し嬉しい私がきた。
秋野ゆりこはまたもや、上品な白いワンピースに黄色いバッグを持ち輝いていた。
よく見ると肌がすごく綺麗で目はくりくりしていて、見れば見るほど私との差にがっくりくる。
廊下の鏡に映る私は、髪はボサボサ、何日変えてないか不安になるほどのジャージに、肌はニキビがポツポツある。
私と違う、秋野ゆりこの登場は目の癒しにもなっていたのかもしれない。
秋野ゆりこをリビングに通すと、また昨日と同じような顔をした。
「今日ははっきり言わせてもらいます。あなた、もうゆきおさんとは別れて欲しいの」
自分の見惚れていた目が現実を見る目に変わっていくのがわかった。
「え? 何でそんな事を言われなきゃならないんですか? この前から質問ばかりしてきますが、一体あなたは? 誰なんですか?」
「失礼しました。私はゆきおさんの・・・・・・昔お付き合いしていたゆりこです。訳がわからないと思うけど、私の話を信じてほしいの。ゆきおと別れてほしいの」
自己紹介を改めてされ、余計に頭は混乱していく。
「え? 元彼女さん? なんで急に? 意味が本当にわかりません。なんで別れなきゃならないんですか?」
「驚くと思いますが、冷静に話を聞いてください。ゆきおさんはね、あなたのことを死んだと周りに説明しているの。それで、私と一緒になるためにいま話が進んでて・・・・・・」
私は意味が究極にわからなかった。
秋野ゆりこは何を言っているんだろう。
いくらゆきおとよりが戻したいとしても、無理が過ぎる。
私はイラつきと動揺で震えてきた。
「な、何をおっしゃってるんですか? わたしはゆきおともう4年付き合っていて、彼が正式にカメラマンになったら結婚したいねってまで話しているんです」
「え? カメラマン?」
「ゆきお、5年前からカメラマンのアシスタントをしています。プロのカメラマンになりたいって言って」
「そんなわけないわよ。ゆきおはナリスキーニ院の次期社長なんだから、カメラマンになりたいなんて聞いた事ない」
私たちの話は一生交わりそうになかった。
だからわたしはゆきおの事を秋野ゆりこから事細かく聞き出した。
衝撃を超えて、頭には白紙が戻った。
まず、ゆきおは36歳の御曹司だった。
ナリスキーニ院という大手病院の次期社長。
そして家は大都会の中心部に8階建ての一軒家があるという。
秋野ゆりことは結婚前提にいま同棲をしているらしい。
もう何もかもが、私の知ってるゆきおじゃなかった。
もう正式な二重人格と言ってくれた方がまだ気が楽なくらいだ。
そして秋野ゆりこから聞いた一番の衝撃は、私との関係だった。
私、カオリとは1年付き合っていたが、私は重度の精神病を患い離れ離れに暮らすようになり、私の病状は悪化し急死した、ということだった。
ゆきおは恋人を亡くした悲しみで半年間、休業していたという。
そしていまは、周りの支えもあり仕事をテキパキこなす36歳のゆきおが生きているということだ。
なぜ、私は彼の中から死んだのか。
なぜ、同い年と言ったのか。
なぜ、カメラマンアシスタントと言ったのか。
何の理由も見つからない。
秋野ゆりこが私の存在に気づいたのは、ゆきおの仕事部屋から出てきた携帯電話だという。
私と取り合っていた連絡に加えて、メモには私に見せていたゆきおの姿が詳細に書かれていたようだ。
私は、秋野ゆりこの話が終わる頃には、家中のティッシュがなくなるほど涙を流していた。
信じていた、ゆきお。
心の底から愛していた、ゆきお。
結婚を夢に生活していた、私。
さくらより儚い散り方をする私が身体で感じた。
今すぐ、ゆきおに聞きたい自分と、何も聞かなかったことにして、これからも一緒にいたい気持ちが入り混じる。
「気持ち、整理できないだろうけど。これが現実。あなたに早く伝えたくて。あなたのためにも、ゆきおのためにも、別れて欲しいの。ゆきおは・・・・・・多分あなたに気持ちはなくて、でも自分がいなくなったら本当に死んじゃうんじゃないかって・・・・・・そういう気持ちなはず。でも、あなたは1人でも大丈夫よね? 私、ゆきおと幸せになりたいの。幸せな家庭を築きたいの。勝手だけど」
勝手すぎる。
そんな気持ちでいっぱいだった。
私だけ、別の世界で息をしているような、世界に置いていかれてるような気持ちで耐えられなかった。
「とりあえず、今日はお帰りください」
秋野ゆりこにこれを言い放ってからのことは、記憶にない。
次に記憶が戻ったのは、次の日の朝方だった。
太陽より早く目覚めると、隣には私の知ってるゆきおが寝ていた。
寝落ちしちゃったのか、顔には眼鏡が引っかかっていた。
眼鏡をそっとサイドテーブルに置いた。
ゆきおの優しい顔を見ていると涙が溢れて止まらなかった。
私の彼氏のはずなのに、どうしてこんなに遠くに感じるのか。
触れているはずなのに、どうしてこんなに安心しないのか。
やっぱり現実だったのかと、身に染みて感じた。
そっとゆきおの肩に顔を寄り添わせた。
ゆきおの香りが幸せな時間を語り出す。
「はぁ。ゆきお。嘘だと言って」
すると、ゆきおがおきた。
「お、カオリ。もう起きたの? どう体調は?」
慌てて私は涙を拭いた。
「あ、ごめん。起こしちゃったね。なんか目覚めちゃって」
「どした? なんかあったの?」
優しいゆきおの声に、私は秋野ゆりこの言葉が全部全部嘘に聞こえてくる。
あんな人が言ったこと、嘘だ。
同姓同名の違う人だ、と自分を頷かせた。
「ゆきおはゆきおだよね? 私たちずっと一緒だよね?」
この質問が精一杯の私の力だった。
「カオリ、ダメだよ。もう前向きな。ちゃんと見守ってるから」
「え? どゆこと?」
泣きながら、泣きながら、私はゆきおの肩をゆさぶった。
揺さぶれば、揺さぶるほど、ゆきおの感触が消えていく。
目の前からゆきおが、消えていく。
私は涙しか方法のない自分が悔しくて、声のでない喉が憎らしくて、自分を嫌いになった。
◇
「カオリさん、カオリさん? おーい」
のぶとく、渋い声が耳に響いてきた。
私は重い瞼に力をいれ、光が見える景色を見た。
そこには白衣を着た頭を輝かした中年おじさんがいた。
どっからどう見ても、医者か研究者だ。
「起きましたか」
「ここは?」
「また忘れちゃいましたか。はっはっは。困ったねぇ。ここはね、精神病院ですよ」
ここが現実世界?
私はすんなり納得できた。
今まで彷徨ってきた世界とは明らかに身体の重みが違う。
「カオリさん、今回は12年間も眠っていましたよ。深い深い眠りでしたね。僕もだいぶ老けちゃいましたよ」
輝く頭の先生は笑いながら、眼鏡のずらしを直していた。
「わたし、なんでここに?」
「カオリさんはね、32年前にここに来たんですよ。好きな人と別れたショックでね。最初は眠れないってことで通院してもらっていたけどね。今度は、眠くて仕方ないってことで。最初は治療の為に入院してから5年間目覚めなかったんですよ」
「そんな前? じゃあ私はいま一体何歳なんですか?」
「いまカオリさんは56歳。でもね、寝ている貴方に老いは訪れない。姿は24歳のままです」
「私は好きな人と別れたショックでこうなってしまったんですか? そんなに誰を好きだったんだろう」
私はポソリと自分に問いかけた。
「忘れちゃいましたか。まぁもう32年前ですからね。仕方ないですね」
「えぇ。記憶がなんにもなくて」と顔を上げると、その医者のネームタグには、"仙鳥ゆきお"と太文字で書かれていた。
私は身体全身に驚きと鳥肌を感じた。
私、まさか。
きっとそう。
私は32年前この目の前にいる医者、仙鳥ゆきおに恋していた。
そして私はフラれた。
記憶はこちらから問いかけるとどんどん扉を開いていく。
私は仙鳥ゆきおとの幸せだった生活を何度も何度も夢で見ていた。
現実を受け入れられなかったはずだ。
なぜだろう、現実に戻った仙鳥ゆきおには何の魅力も何のトキメキも感じなかった。
なぜ、好きだったのだろうと問いかけたいほどだ。
私は馬鹿らしくなった。
「ぷぷぷっ」
自分に自分で笑えてくる。
あの男のせいで、こんなに精神的に傷つき現実世界から背を向けていたなんて、なんてもったいないことをしていたんだろうと。
そこに、看護婦がやってきた。
「お久しぶりのおはようですね、カオリさん。もう冬ですよ〜。冷えてきましたね、さぁ、点滴交換しますね」
今度は中年のおばさんが点滴を変えにきた。
小太りながら色気のある看護婦さんだった。
「ありがとうございます」
私は窓の外を眺めながら、現実の景色を楽しんだ。
「はい、点滴新しくなったのでまた具合悪くなったらすぐナースコールしてくださいー」
優しい声で私を包んだ、ふと顔をあげると胸元のバッジには、"秋野ゆりこ"の5文字。
全てが繋がった。
私は翌日、病院を脱走した。
あの場で記憶が全て戻るのが怖かった。
これでいいんだ。
あの時大恋愛していた記憶はそっと頭の片隅に整理してしまった。
そして私は生まれ変わる、今日から。
だって、私は生きてる。
(編集部より)本当はこんな物語です!
「過眠。メンヘル。二十五歳」という主人公の寧子は、学生時代にエキセントリック子(略してエキ子)というあだ名を付けられるくらい、躁鬱の波が激しい。合コンで知り合った雑誌編集者の津奈木となりゆきで同棲を始めて3年、バイトも辞めて引きこもり気味の生活を送っていると、津奈木の元恋人という女性が現れます。津奈木との復縁を目指す彼女は、寧子に津奈木のもとを出ていくよう激しく迫ります。
「ふつうの『恋愛小説』の枠から、かなりはみ出た」(文芸批評家・仲俣暁生さん)作品でありながら、関係性のあり方の本質が浮かび上がってきます。カレンさんの作品がSF的な味つけなのに対し、本谷さんの作品は25歳の女性の現実に即して描かれています。