批判されるスピリチュアリティ
――今作と前作『占いをまとう少女たち』(青弓社)はどちらも「女性とスピリチュアリティ」がテーマです。どんなきっかけで関心を持つようになったのでしょうか?
まず「スピリチュアリティ」は、組織化されていない「宗教的なもの」の現れを示す言葉なのですが、宗教に興味を持った最初のきっかけは、1995年にオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件でした。
実行犯がどういう理屈で事件を起こしたのか知りたくて、博士論文でも「オウム真理教と暴力」について書きましたが、宗教における救済と暴力は今も自分の中で続いているテーマです。
その同時期、私が大学院で研究をしていた2000年代に、「スピリチュアル・ブーム」が起こりました。具体的には、江原啓之さんが芸能人を霊視する番組「オーラの泉」が流行って、「すぴこん(スピリチュアル・コンベンション)」や「癒しフェア」などスピリチュアルなコンテンツを売買するマーケットが日本各地で開催されるようになったんですね。
ただ、オウム真理教の一連の事件をきっかけにして、宗教的なものへの忌避感が一気に広まっていたので、「スピリチュアル・ブーム」に対しても同一視して「また同じことをくり返すのか」と批判する声も挙がっていました。
でも実際のところ「すぴこん」は宗教団体の出展を禁止していましたし、そこに集まる人たちも流動的でした。言ってみれば、女性たちの手作りマーケットの一つで、彼女たちのコミュニティの場という趣だったんですよね。私が実際にイベントに出入りしていた感覚からしても、オウム真理教が起こした事件のような暴力への直結は考えにくいなと。
これらの「スピリチュアル・ブーム」とそれに対する批判を目の当たりにするうちに、女性とスピリチュアリティというものがそもそもどういう結びつきで、どういう発展をしてきたのか、その背景に興味を持つようになりました。
――女性をめぐるスピリチュアリティのなかでも、今回は妊娠・出産をめぐるものに絞ったのはなぜですか?
ある時から急に、スピリチュアルイベントで不妊治療や妊娠・出産にまつわるコンテンツが増え始めたんですね。
「満月の日に作られたので効果的」と書かれたパワーストーン付きの布ナプキンが山盛り売られていたり、会場内で男性不妊をテーマに男性歌手がトーク&ライブを開いている現象を目にするうちに、いよいよ「これはなんなんだ」と思って調べ始めたら思った以上に沼だった、という結果をまとめたのが今回の本です。
「正しい母親」論争は誰のため?
――具体的には「子宮系」「胎内記憶」「自然なお産」の3つが中心に取り上げられていますね。
はい、今回は紙幅の都合から、2000年代以降の流れに絞ったのでこの3つだけになりました。ですが、妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティの変遷を辿ると、本来は80年代のニューエイジ運動やフェミニズムからの長い歴史があります。オーラやパワースポットなどに比べても、スピリチュアリティと妊娠・出産の関係性は歴史が複雑で、かなりややこしいんです。
たとえば、「自然なお産」というのは、できるだけ医薬品や医療に頼らずに、女性が主体的な意識を持ってお産に取り組むことを指しますが、これには戦後の日本の歴史が大きく関わっています。
社会学者の大林道子が『助産婦の戦後』の中で書いているのですが、終戦後にGHQが主導して出産の病院化を急速に広め、助産婦制度を廃止しようとする流れがありました。それに対して、助産婦たちが団体を立ち上げて、廃止を阻止して制度を存続させた経緯があるので、彼女たちにはその自負があります。
助産婦向け同人誌上で、1970年代に行われた無痛分娩にまつわる座談会の中でも、「そんなのは愚かなやり方で、お腹を痛めて産んでこそ母親」「アメリカ式の人工的なお産では、ロクな母親になれない」といった意見が上がっていて、助産婦だけではなくその意見に産婦人科医も賛同していました。日本では今なお無痛分娩へのこういった批判が存在します。
――「お腹を痛めて産んでこそ母親になれる」という言説にはそういう歴史があるんですね……。
「自然なお産」はその後過激化していって、90年代以降には水中出産、さらには完全に家族の手しか借りない自力出産に挑戦する人たちも出てきました。医療を介入させず、自力で出産に挑むことで「正しい母親」になれるという考え方ですよね。
ところが、「自然なお産」を推進した助産婦たちが支持した「ホメオパシー(医療薬を使わず、植物や鉱物などを入れたレメディと呼ばれる水を使用する治療法)」に批判が集まる事件が2009年に起こりました。新生児に必要なビタミンKの代わりに、その代替になるとされるレメディを投与した生後2カ月の赤ちゃんが脳出血で亡くなった事件です。
この事件をきっかけにしてホメオパシーだけでなく、「自然なお産」そのものにも厳しい目が向けられるようになりました。
ここで私が問題に思っているのは、助産婦だけではなく産婦人科医も一緒になって「お腹を痛めて産んでこそ母親」という言説を広めていたにもかかわらず、産婦人科医が手のひらを返して「自然なお産」を選ぶ女性たちを批判していることです。
「自然なお産」を推進した側の責任を自覚せず、「正しい母親になりたい」と思って行動した女性たちを一方的に批判することには疑問を覚えます。
――本書の「子宮系」の説明の中でも、似た問題が指摘されていますね。医者が登場して科学的なデータを元に話すページと、子宮に神聖性や神秘性を見出すスピリチュアル的な価値観を示すページがセットになって一冊のムックになっていると。
そうですね。「子宮力アップ」をテーマにしたムックでは、産婦人科医が「妊娠の目安は35歳まで」と科学的データとともに紹介しているのですが、その記事に続けて整体師が「心の状態が子宮に働き妊娠力に大きく影響を与える。だから嫌なことにとらわれたら上を見よう!」と主張しています。
医学的根拠に基づく知見と、前向きな内面性が妊娠力に影響するというスピリチュアルの萌芽がみて取れる主張が、同じ出版物に収められているわけです。
それなのに産婦人科医が「そんなくだらないスピリチュアルにハマらないでください」と批判するのは違うんじゃないかと思うんですよね。
――妊娠を切実に希望する女性たちは、少しでも望みがあるものならなんでも試したいと思ってもおかしくないですよね。
あと、母親のなかには、子どものアトピーやアレルギーに効くという民間療法をSNSで発信する人もいます。そういった投稿に対して、スピリチュアル的なものを否定する医者アカウントが、「あなたのしていることは間違いであり、あなたが正しい母親ではないせいで、子どもの健康が損なわれている」といった批判をしています。
もちろん、医療の面から安全でない行為があれば指摘すべきですが、問題は本人が切実に悩んでいるであろうデリケートな話題だということを考慮に入れず、医療イデオロギーの正しさをいきなりぶつけることですよね。
そうなってくると結局はスピリチュアル側も、医療側も、それぞれの持つ「正しい母親像」を押し付けて、それ以外は認めない態度になってしまっているんですよ。
そもそもの話として、母親としての振る舞いを「正しい/正しくない」とジャッジする文化自体がおかしいですよね。実際に子育てしている人が切実にほしいのは、外野からどうこう言われるよりも、休む時間だったり、子育てしながら働く柔軟な環境だったり、家事育児に主体的なパートナーだったりするはずで。
人間はそんなに馬鹿ではない
――確かにそうですよね。この本を読みながら、妊娠・出産を選択した女性が直面する寄るべなさと、その不安を解消する手段としてスピリチュアリティが求められている現実を知って、複雑な気持ちになりました。
妊娠・出産のスピリチュアリティに関する言説が、金銭問題や健康問題を損ねるケースや、人間関係を壊すケースも実際にあるので、やはり危うい面は多々あります。
ただ、それらに対する批判がすべて的を射たものとも言えないんですね。さっきの例のように、医療や科学の観点に過剰と言えるほど寄りすぎていたり、そもそも「スピリチュアル」的な事象を一緒くたにして批判している場合も少なくありません。
私が実際にイベントに出入りして思ったのは、すごくスピリチュアルにハマって、ブログやSNSなんかにギョッとするようなことを書いている人であっても、実際に話してみるとその人の事情や考えがあるわけですよね。
スピリチュアルにハマる人をとりわけ心配したり、あるいは「無知な存在」とみなして揶揄したりする人たちもいますが、私は基本的には、経済や生活が破綻さえしなければいいんじゃないかと思ってるんです。
たとえば、隕石のパワーストーンがついた3万円の指輪を買ったら心配されて、コミケで5〜6万円分の同人誌を買い込んでも心配されないわけですよね。お金を注ぎ込んでいること自体に変わりはないのに、その行動を他人が勝手に判断してどうこう言えるのかなって話で。
これは私の信条ですが、人間はそんなに馬鹿じゃないんですよ。
いくら他人にとって滑稽なことであっても、その背景には本人にしかわからない痛みや切実さがあります。そういった個々の事情に目を向けずに、自分の正義を押し付けるかのように批判する態度こそ疑問を感じます。
私たちは価値観がバラバラな世界に住んでいるのに、そこを一つの価値観にまとめようとする意識で、人のことを批判したり評価したりすること自体が無理なことだと、そろそろ気づくべきだと思うんです。
――本書の「おわりに」では、今回十分に言及できなかった70年代から90年代の妊娠・出産をめぐるスピリチュアリティに今後取り組みたいと書かれています。
そうですね。あとは、男性のスピリチュアリティもそろそろ考えてみたいです。
以前学会で、雑誌「ムー」で紹介されている修行方法を研究して発表したことがあって、その時に超能力やピラミッドパワーを身につけるための実践コラムを全部読んで分析したんですが、その目的はだいたい「モテたい」「セックスしたい」というもので、かなり俗っぽい。ある種、マッチョな世界なんですよね。突き詰めると、「男らしさ」へのしがらみが見えてくるんじゃないかと思っています。