それは突然のことだった。
いや、僕が脳内で考えることを拒否していたのかもしれない。
考えたくない、知りたくない、何も変わることはない。
これが僕の三大逃げ言葉だったんだ。
僕の妻が死んだ。
突然が、ここには似合わないのかもしれない。
なぜなら妻が病気だったのは知っていたから。
毎日、病院に通っていた。
顔色が雲色の日も、太陽色の日も、雨色の日も。
妻の容態を一番知っていたはずだし、一番理解していたはずだが、体は理解を最後まで拒んでいたようだ。
妻がいなくなった部屋からはほんのり、記憶の香りが漂っていた。
薄く布に包まれたようなお花の香り。
今にも、妻の声が聞こえてきそうな空気だ。
でも、確かなのは、もう、妻の声は聞こえてはこない、ということ。
そんな毎日考えても、答えも出口もない。
つかみようのない切なさが胸を紐でしばってくるようだ。
いっそのこと、僕を焼豚にしてくれ。
そんな気分だ。
僕はもう65歳。
趣味もなく、仕事もない。
無事に満期で退職してこれから、妻との時間を人生のゴールに向かって穏やかに過ごすことが僕の夢だった、はず。
奪う物は1人1個までにしてくれないか。
神様・・・・・・。
最近、眼鏡の度も合わなくなってきた。
でも、どうでもよかった。
新聞の記事、テレビの字幕、本の文字・・・・・・。
どれも読めなくたっていい。
何もはっきりさせたくないんだ、今の僕は。
落ち込み選手権があるなら、僕はいま世界1位を取れるだろう。
そんなしょうもない選手権に、僕は脳内で53回はノミネートしている。
実に、惨めだった。
こんな僕を妻が見たら、愛せてないだろうと思うほど。
そんな暗闇に慣れ親しんでいたとき、一本の電話が鳴った。
プルルルル プルルルル
「はい、矢崎です」
「もしもし?! 私、恩田と申します〜! 矢崎なお様のご自宅でしょうか?」
妻の名前に、喉をナイフで刺された様に苦しくなった。
まだまだ僕は、今に慣れていないようだ。
「はい。何か?」
僕はさっさと電話を切りたかった。
よれた部屋着の裾を、爪から血色を奪うほどにつよく握って、このやけに明るいおばさんの話に耐えた。
「あぁ! よかった。何度かなおさんの携帯にお電話とおメール差し上げたのですがお返事なかったので、ご自宅に電話させていただいたのですが〜」
「妻は、も・・・・・・」
僕はもう妻の事を言ってしまおうと思った。
「でね、私は沢田駅の近くで料理教室“クッキングッド”の講師をしておりましてね、なおさん、来週の水曜日13:00からご予約頂いておりますんで〜。変更ありませんかぁ?ってお話と、その時必要な持ち物をお伝えしたくてお電話しました〜」
クラッカーみたいに明るい声に、僕の声は一瞬にして飲み込まれていた。
「わざわざ、ありがとうございます。実は、先日妻は病気の為この世を去りました。ご挨拶遅くなり申し訳ありません」
僕は、自分が時報かと思うほど定型文を何の感情もなく一言も狂わず伝えた。
「ん? ・・・・・・えっ」
ようやくクラッカーな声は祭りの後のように静まる。
「なおさんが? あ、いえ、すいません。私なんの事情も知らずに不謹慎なことを。申し訳ないです。もしかして、旦那様ですか?」
「あぁ、はい。なおの夫です」
ようやく話が終わると安心していた。
「矢崎さん! もし、もし、ご迷惑じゃなければお越しいただけませんか?」
予想外の言葉が耳で止まる。
「あ、行きます」
予想外の返事が口を通った。
え? 僕の言葉か? と疑うほど、身体がとっさに反応した。
「わぁ! それは嬉しい! なおさんねぇ、本当に毎回楽しんでいただいていたの。旦那様にも同じ気持ちになってきてもらえたら嬉しいわ〜! あ、じゃあせっかくなんで、持ち物も伝えておきますね! えっと〜“椎茸を甘辛く煮て”持ってきていただきたいんです〜。椎茸、奥様大好物でしたよね? まぁもちろん無理でしたら手ぶらでもいいんでね!」
さらにさっきより弾けた声が電話口から抜けてきた。
鼻息さえも受話器を通り抜けそうな勢いだ。
「わかりました。では、来週水曜日に」
僕は受話器を置くと、今の会話を振り返った。
妻は多趣味だった。
料理教室、手芸、ペーパークラフト、習字、歌舞伎鑑賞、演劇鑑賞、美術館巡り・・・・・・。
そういえば、毎日慌ただしく何かしら予定が入っていた。
妻は、自分のゴールを分かっていたのか。
あれだけの趣味を詰め込んで、1秒も無駄にせず楽しんで。
そして、この世を去った。
そんな多趣味な妻の世界を1個でも覗いてみたかった。
だから、僕はこの電話は妻からの誘いな気がしてならなかった。
“あなたも一緒に楽しみなさい”
妻の誘いに、間違いない。
そうと決まれば、来週の水曜日は妻とデートの日のようにワクワクした。
数分前まで、暗闇の中で度の合わない眼鏡をつけて二重になる文字を眺めてる僕とは大違いだ。
顔を洗い、久しぶりにチノパンを履いて襟付きのポロシャツを着た。
勢いよく家を出た。
9月の風は案外、当たりが優しかった。
夏の終わりを届ける蝉の死骸は、強く夏を生き抜いた勲章にさえ見えた。
夕方を知らせる橙色の空は、僕だけを見つめている応援旗に映った。
そんな勢い付いた僕は、スーパーに足を動かす。
“椎茸を甘辛く煮たもの”
僕からしたら、どっかのなぞなぞに聞こえる。
でも、料理を特に楽しんでいた妻の姿が目に浮かぶ。
毎日、食卓を楽しませていた。
お皿たちは堂々として、食材たちはいつも愛され、食卓は妻の作るお楽しみ広場だった。
台所に立つ妻は、そういえば、いつも鼻歌を歌っていた。
ご機嫌な妻は、作ることも、食べることも大好きだったからだ。
僕も、料理をしてみたい。
そう強く思えた。
久しぶりに足を入れたスニーカーに小指がぶつかる。
今なら靴擦れさえも、生きてる僕を生かす理由になりそうだ。
スーパーに入ると、ご丁寧なほど食材で溢れていた。
僕は、さっき恩田先生から聞いた材料を探した。
椎茸、醤油、みりん、酒、砂糖。
買ったことのない、5つの宝探しだ。
宝はあっという間に見つかった。
スーパーの袋を大切に持ち、頭の中で椎茸の甘辛煮の味を想像しながら家に帰った。
あ、いや正確に言えば、帰りに眼鏡屋に寄った。
自分に合った眼鏡を作り直した。
僕はいま、なんの曇りも目の前に作りたくなかった。
自宅に戻ると、すぐさま台所に向かった。
毎日過ごしている自宅なのに、台所だけは他人の家にいるようだ。
コンロの付け方もあやふやだ。
僕は、妻に頼りっぱなしだったんだな。
妻がいない世界は、ひとつ、ひとつが新しくて知らないことだらけだった。
もっと、もっと、もっと、話しておきたいことがあった。
醤油、みりん、酒、砂糖を台所に並べ、椎茸はとりあえず洗ってみた。
でも椎茸はどんな形にすればいいかわからない。
とりあえず、鍋に入れて焼いてみよう。
僕は、フライパンに火をつけ、椎茸を入れてみた。
ゴロンといたたまれない姿でフライパンに横たわる椎茸。
これでいいのか?
何やら煙たい香りが、僕の鼻を刺激する。
相変わらず、無言な椎茸。
この後、何したらいいのだろう。
僕の手は止まる。
準備はできても、いざ前に進みたくても、進み方が分からなかった。
肩を落とす自分がまた惨めだった。
部屋は煙くさくなっていく一方だ。
椎茸は黒々してきた。
「とりあえず、換気扇回して!」
!!!
僕の耳が間違っていないなら、妻の声だ。
「なお?」
「ほらほら〜、換気扇! こんな煙たくしちゃって〜!」
妻だ。
間違いはない。
妻だ!!!
「なお? どこだ?」
言われたとおりに、換気扇をつけ、僕は辺りを360度くまなく見渡した。
だが、姿はない。
「ほら、あなたの目の前。真下? かしら?」
妻の優しく穏やかな声が懐かしい。
「真下?」と僕は言われた通りに目を落とす。
だが、黒々しい椎茸しか目に入らない。
「そう、ここよ」
「え?! なお・・・・・・し、椎茸から声がしてるのか?」
「そうよ。ふふ。信じられないでしょう? もう見てられないんだもの、あなたの料理。料理というかもうそれは、実験ね」
「だからって、椎茸に魂移したなんて、ははは、なんだか、なおらしいな」
妻が大好きな椎茸から、大好きな妻の声が聞こえてくる。
夢のようだった。
いや、夢だったのかもしれない。
でも、僕はこの時間が幸せで幸せで、疑うより、1秒でも早く受け入れている自分がいた。
「一緒に作りましょう。来週、私の代わりに料理教室行ってくれるんでしょ? あなたにそんな所で恥かかせられないからね。ありがとうね、あなた」
椎茸からする妻の声は、僕の愛した妻だった。
「なおが一緒に作ってくれるなら、僕も心強いよ。こちらこそありがとう! 一から教えてくれ」
「よしっ、じゃあまずフライパンから私を出してくださいな。もう焦げちゃって大変よ! ははは」
椎茸の形をした妻をお皿に移す。
「じゃあまずね、味が染み渡るようにこの椎茸の脚の部分を切っちゃって、さらに薄く切ってちょうだい」
「え? 切ったら、なおは痛くないのか?」
我ながら、子供みたいな質問をしてしまった。
「当たり前でしょもう〜。痛みはないから、ほら、切ってちょうだい!」
「わかった、ここを切って・・・・・・で、さらに薄く切るんだな」
「あぁ、そうそう! うん! 少し分厚いけど・・・・・・まぁ味は染み込むわ! さぁ、じゃあ次はお鍋をだして〜!」
「分厚いか? これ? これ以上薄くなんて人の手じゃ無理だろ?」
「ははは、できますよ〜。だってそれ消しゴムくらい分厚いですよ? でも、あなたらしくて私は好きよ! ほら! 鍋、鍋!」
妻との、変わらない会話にいつしか夢中になって椎茸に話しかけていた。
「鍋出したぞ! 何をする?」
「じゃあ、お鍋の中にお醤油を、2人で行った宮方公園に水溜りみたいな小さな池あったでしょ? あれを鍋につくって〜」
「宮方公園懐かしいなぁ。あの、なおが浅くて水溜りか池かわからなかったやつか〜。ん〜こんなもんか?」
「あら〜いい池じゃない! バッチリ! そしたら〜、あなたがいつも湯呑みに残すお茶くらい酒を入れて〜」
「え〜、よく覚えてるなぁ。ははは、最後って、冷めちゃうし苦くていつも飲みきれないんだよな・・・・・・こんくらいか?」
「わぁ、さすが毎日残してただけあるわね! 完璧よ!! じゃあ、次はみりん! ん〜みりんは結婚式の二次会であなたが酔っ払ったお酒の量くらいね。さぁ、覚えてるかしら?」
「弱ったなぁー、そんな昔の話。でも確か2口くらいだったよなぁ? 昔から下戸だからな、僕は、あの時はなおに迷惑かけたなぁ・・・・・・ってみりんこんなもんでほんとにいいのか?」
「あらぁ! 嬉しい! よく覚えてるわね。そのくらいの量でバッチリよ! そうそうシャンパン2口飲んで盛大に酔っ払ってたのよ。よく覚えてる。顔真っ赤にして。私の肩で寝ちゃってね。主役だっていうのに!」
「あぁ、そうだ! その分なおがお酒強くて、あの時から、なおには頼りっぱなしだったのか、いや〜情けない。すまんな色々」
「何を今更、私は幸せだったわよ! さぁ、そしたらねお水を、昔飼ってたハムスターのリマにあげてた水の量くらいいれてね」
「またまた懐かしいなぁ。リマよく脱走していたよな。ぷくぷく太っちゃってさ。かわいかった。水は僕の担当だったからよく覚えてるよ。んー、このくらいだな!」
「ああ! そう! やるじゃないあなた! そしたら、火をつけて私も全て鍋に入れちゃって!」
「お! ここで椎茸の登場か! よしじゃあいれるぞ!」
妻との思い出話は、絶えることはなかった。
話していた何倍も思い出を語れる自信があった。
いま、シャッターを切ったようにあの日が浮かび出てくる。
きっと妻と僕の目の前の景色は同じはず。
僕は妻との思い出を噛み締めながら、作ったことのない椎茸の甘辛煮を作れていた。
「あとは弱火にして、15分くらい煮てちょうだい。そしたら出来上がりよ。タッパーにいれて水曜日持っていってね。冷蔵庫にいれて保存してね?」
「え? もうできるの? なんだ、思っていたより随分上手くいったよ。なおのおかげだな」
「よかったわ。役に立てて。なんだか、放っておけなくてね。あなたが今日電話に出てくれて、外出してくれた姿を見たら、嬉しくてね。あなた、本当に私がいなくても強く生きてくださいよ?」
妻には全て見られていた。
弱っちぃ僕を見かねたのだろう。
「なお、ごめんな、僕がこんなんじゃ、いつまでたってもなおも休まらないよな。なおの分まで必ず生きてみせるよ。なおとしたかったことをするまでは、僕は死ねないな。なおは、のんびり待っててくれ」
椎茸の入った、鍋が小さな音で煮えていく。
煮汁は徐々に減っていった。
椎茸が飲んでいるかのように。
「その言葉、あなたから聞けて安心しましたよ。私は、ずっとずっとそばに居ますから。いつもあなたの味方ですよ。そして、あなたが私の夫で本当に幸せよ。今も、これからも、これまでも。ありがとう。あなたと来世でまた結婚することが、私の夢です」
椎茸から聞こえてきた、妻の想い。
涙はもう止まり方を忘れているようだ。
僕の顎、首にまで涙の通り道を感じた。
鍋のコトコト音にいい具合に掻き消されながら鼻をすする。
「・・・・・・な、お・・・・・・あ、ありがとうな・・・・・・」
妻との会話の別れを身体が感じる。
「またね」
妻の声は、遠くへ歩いていくように小さくなる。
やがてコトコト音が静まる。
煮汁を思う存分吸った椎茸がくったりと鍋を覆う。
カチ。
火を止めた。
僕の目の前には、椎茸の甘辛煮が残った。
妻の残した、最後のものだ。
熱々の椎茸を一口食べてみた。
「うまい」
妻がよく作ってくれた、甘辛煮だ。
その味を、今日は僕が作った。
妻と一緒に。
初めての共同作業だった。
僕は、こんなに泣き虫だったのか。
涙は次の日の朝まで流れた。
これが最後の涙にすると誓い、僕はその日から、約束通り弱っちぃ自分は封印した。
妻にいつ見られても安心してもらえるように、妻にまたいつか会ったとき好きになってもらえる僕でいれるように。
料理教室がつなげた、妻と僕の最後の思い出だった。
僕はそれ以来、1カ月に3回“クッキングッド”に通っている。
今じゃ、オムライスも筑前煮も一丁前に作れるようになった。
“来世で妻に食べさせてやろう”
それが今の僕の夢だ。
(編集部より)本当はこんな物語です!
妻に先立たれた泰平は、妻が予約していた人気料理家の教室に一度だけ参加することになります。課題として出された「甘辛く煮た椎茸」を作ろうと悪戦苦闘するうちに出会ったのが、妻が残したレシピ帳。そこには「私が過去にタイムスリップして、どこかの時代にいけるなら、私は椎茸だったころに戻りたいと思う」という書き込みがありました。
ほとんど料理をしてこなかった泰平にはその意味がまったくわからなかったのですが、料理教室でちらし寿司を作ってから、泰平は台所に立つようになります。残された妻のことばを読み、料理を続けていくうちに泰平もまた「椎茸だったころ」を思い出し・・・・・・。
「椎茸だったころ」がなんであるのか、ことばで明文化されないままに、ある雰囲気や気配が読者に手渡されます。書かないことでこそ伝わるのが、短編小説の魅力なのかもしれません。
滝沢カレンさん自身が語る執筆の裏話
滝沢カレンさんが執筆の苦労や「物語」へのこだわりを、好書好日Podcast「本好きの昼休み」で語っています。Spotifyでは「カレンさんに書いて欲しい」名作タイトルの投票もできます。こちらもぜひ、お聞き逃しなく!