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永井博士の弔辞、意図せぬ解釈 青来有一

イラスト・竹田明日香

 長崎の原子爆弾では多くのカトリック信徒が亡くなりました。浦上の信徒1万2千人のうち8500人が亡くなったともいわれ、当時「天罰」だと陰口がささやかれたといいます。禁教時代や戦時下に根を張った偏見があったのか、肉親を失った信徒にはゆるしがたい陰口です。

 「それじゃ私の家内と子供は悪者でしたか!」

 信徒の市太郎さんは永井隆博士に嘆きました。彼も原爆で妻と5人の子どもを失っていました。長崎医科大学教授で被爆後に救護活動に奔走した永井博士も妻を失った信徒でした。「私はまるで反対の思想をもっています。原子爆弾が浦上に落ちたのは大きなみ摂理である。神の恵みである」と博士は語り、合同葬儀で読む弔辞を見せました。そこには第1攻撃目標の都市や次の目標地点の長崎市中心部が雲に覆われ、爆撃機が浦上に飛んできたのは偶然ではなく、教会が炎上したその時、天皇陛下が「終戦の聖断」を下されたのも偶然ではないと書かれていました。 

 「世界大戦争という人類の罪悪の償い」のため、迫害と殉教の歴史を耐え、信仰を守り、平和を祈り続けてきた「日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠(ほふ)られ燃やさるべき潔き羔(こひつじ)として選ばれた」というのが、永井博士の弔辞の考えでした。生き残った者がむしろ罪人で、平和のためにこれから試練に耐えていかなければならない……。「長崎の鐘」のこの話を読んだ中学生の時、素朴に感動していたと思います。

    ◇

 それから20年ほどが過ぎ、1994年、「長崎にあって哲学する―核時代の死と生」(北樹出版)という本が出版されました。著者の高橋真司氏は長崎の地に根ざし、核や戦争の思索を深められた哲学者で、永井博士の考えを「浦上燔祭(はんさい)説」と名づけて批判しました。「燔祭」とは、いけにえを神に捧げる儀式のことです。「浦上燔祭説」は、無謀な戦争で国民を犠牲にした日本政府の責任と、軍事的には使う必要もなかった原子爆弾で、非戦闘員の市民まで無差別に殺戮(さつりく)したアメリカ政府の責任をそれぞれあいまいにし「二重の免責」をしたという批判でした。神と原爆をめぐる「長崎の鐘」の話に感動し、国家の戦争責任など政治の問題をほとんど考えなかった自分に気づいてはっとさせられました。

 一方、「浦上燔祭説」には反論もあり、永井博士は信徒を慰めるために葬儀の場でその話をしたのであり、博士の意図を越えたあまりに政治的な解釈だという反論をはじめ、専門家、市民も交えて議論が続きました。

    ◇

 最近、「燔祭説」は「説」ではなく「物語」ではなかったのかとふっと思う瞬間がありました。爆撃機から雲のすきまに浦上が見えたのは偶然でしかなく、論説の根拠になるはずがありません。偶然を必然として意味づけるのは物語です。

 永井博士は「浦上天罰物語」を「浦上燔祭物語」にひっくり返し、信徒の死を意味あるものとして語りなおしたのではないか。物語は心を癒やしますが、論説や思想のようには検証や批判的な議論はなされないまま世に広まっていきます。時には別の物語と混じり合い、人々の事物を見る眼を変容させ、利用される危うさもある。日本人を巻きこんだ戦争の物語を考えればわかるはずです。敗戦でその物語が破綻(はたん)し、復興や新しい外交につながる平和の物語として、永井博士の意図を超えて「燔祭物語」は広がっていったのではないか。

 そんなことを考えたら「天動説」は「天動物語」なのか、「陰謀論」は「陰謀物語」ではないかなど、頭が勝手にうるさくしゃべり始めました。「物語」がケシカランというのではありません。「私」も物語なら「現実」も物語だと考えられるふしもあり、今どんな物語を生きているかと時々自問することで、時代に溺れないように一息つくくらいはできると思うのです。=朝日新聞2021年10月4日掲載