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【記者推し】滝口悠生『長い一日』 おかしみ悲しみ、重なる記憶

滝口悠生『長い一日』(講談社)

 本を手に取るきっかけは様々だが、『長い一日』という小説は変わっていた。単行本になる半年ほど前、大阪の書店「toi books」に置かれていたフリーペーパーで知った。冊子の発行者欄には「滝口悠生」とある。小説の作者自身だ。

 初出はPR誌の連載。PR誌は時期を逃すと入手しづらいため、版元の協力を得てフリーペーパーを作ったそうだ。A3の紙に連載1回分ずつを印刷し、文庫ほどに折り畳んだ。配布は東京と大阪、青森の3店だけ。大阪の書店は優しくて、その場にあるバックナンバーすべてを渡してくれた。順不同で読んでも楽しい長編だ。

 物語はエッセーのように始まる。語り手の「私」は、「青山七恵さん」から教わった展覧会を見たり、先輩小説家の「柴崎さん」に電車で偶然会ったり。部屋の片付けをして、妻と近所を歩く。日常をスケッチする描写が心地よく続くが、ふと気づけば地の文から「私」が消えている。語り手は「夫」や「妻」の三人称へと移り、さらに別の人物へと視点が流れてゆく。いつのまにか小説になっていたのだ。

 顔じゅうしわだらけの近所の「しわ犬」や、古い友人の「窓目くん」。登場するみなにユーモアと悲しさがある。淡々とした筆致ながら濃密に感じるのは、過去の記憶が重なっていくからだろうか。小説らしさが高まるにつれ、時間は自在に伸びていく。(中村真理子)=朝日新聞2021年10月13日掲載