
ISBN: 9784103328148
発売⽇: 2025/03/26
サイズ: 13.5×19.1cm/552p

ISBN: 9784103328155
発売⽇: 2025/03/26
サイズ: 13.5×19.1cm/552p
「天使も踏むを畏れるところ」(上、下) [著]松家仁之
こんなに厚手の小説なのに、あるリズム感を持って調子に乗れば、どんどん先へと進んでいく。何せ上・下2巻で1100ページ近くもあるのだから。
といって読み解き困難な仕掛けや多くの伏線が張られているわけではない。戦後15年からの新宮殿建設を巡る人々の、いわば「青春群像小説」なのである。
才能ある建築家たちによる新宮殿への挑戦と葛藤と挫折、それらが国家官僚、建設技官、宮内庁関係者、天皇・皇后・美智子妃ら皇族方の思惑と言動と交わりながら描かれる。まさに戦後の天皇制と民主主義と国民の相互関係性が、皇居の新宮殿の建築のあり方に反映する。
戦後は終わったと言われ、高度成長から東京オリンピック、そして大阪万国博覧会へと楽観の時代を進む日本。関東大震災、東京大空襲、そしてベルエポックとも称されたオリンピック建設の時代へと、皇居を取り巻く東京の姿は破壊と建設を繰り返す。そこで、新宮殿こそは末永く戦後天皇制の象徴たらしめねばならぬ。クライマックスに至るまで対立を繰り返す、国家官僚と建築家の青少年時代――片や佐渡出身で刻苦精励の貧乏学生、他方下町の和菓子屋の子――相交わることのない2人の人生が象徴天皇制の視覚化においてぶつかる姿はなかなかにスリリングだ。
狂言回しのように現れるごく真っ当な建設技官、それに文中唯一「予」と名乗る粋人侍従、さらに「さん」付けされる東宮参与、そして美智子妃の相談役となる女性園芸家。彼らがあるべき宮殿を舞台に所狭しと駆けまわる。そしていま一つの建築と園芸の感性に影響を与える地として、軽井沢が語られる。すると、皇太子と美智子妃のロマンスが思い浮かぶ仕掛けなのだ。
あとは映画と8ミリフィルムが、まさに戦後の人々の生活を象徴するがごとくに現れる。黒澤明の「生きる」と「天国と地獄」。そして小津安二郎の「東京物語」と「秋刀魚(さんま)の味」。著者の映画観がそこによくうかがえ、時代がしみじみわかる。天皇一家は、自らのフィルムと海外の映画を楽しみ、世間知を増やすことになる。
ああ、でも読後のこの快感はどこに由来するのか。滝のように流れ落ちる水を浴びるごとく前へ前へと進む読みごたえの他あるまい。例えば建築家は国家官僚と異なり、新宮殿の可能な限りの耐震性を望まない。国民に近づく天皇であれば、ある程度の耐震性でよいのではないかと。こういうもの言いが至る所にあるのだ。ゾクッとしませんか。
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まついえ・まさし 1958年生まれ。小説家。編集者を経て、2012年発表の長編『火山のふもとで』でデビュー、読売文学賞。著書に『沈むフランシス』『優雅なのかどうか、わからない』『光の犬』『泡』など。