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朝倉宏景さんが考えるエキストラの歩き方とエンタメ小説

©GettyImages

 ドラマや映画で、主人公たちの後ろを歩いて行くエキストラの通行人たちになぜかむかしから心ひかれてしまう。とくに、「金八先生」など、学園ドラマの登校シーンが好きだった。現場のADさんの指示を受けるのだろうが、話したり、ふざけたり、自然に登校する生徒がいる一方で、肩にかけたスクールバッグの持ち手を握りしめ、ただただまっすぐ前方を見つめ、一直線に、平均台の上をつたうように、ぎこちなく歩いていく子もいる。主要な登場人物たちが「おはよう!」と挨拶しているのをそっちのけで、私は画面の後ろの様々なエキストラの、思い思いの歩き方を見てしまう。

 考えてみれば、我々の日常生活で前方の一点のみを凝視して歩いている人がいたら、それはかなりの不審者である。ふつうは、あっちを見たり、こっちを向いたり、視線は定まらないはずだ。

 緊張しているのか、それともカメラのほうを見てはいけないと過剰に意識しているからか、まったく顔も動かさず、ロボットみたいにぎこちない歩き方のエキストラを発見すると、たとえ作品世界がシリアスでも、なんとなく微笑ましく、ほっこりしてしまう。ただふつうに歩けばいいだけなのに、なんであんなに、プログラミングされた機械みたいな、おかしな動作になってしまうのだろう? 一時期、私はそのことを真剣に考えたことがある。

 おそらく、「歩く」という動作そのものが目的となっているからではないだろうか? ふつう、私たちはどこかへ移動するために「歩く」のであって、その行為は手段だ。AからBへ向かう目的のために歩く。それは、自転車や自動車と同じように移動の手段だ。

 しかし、エキストラの皆さんはどこかへ移動するために歩いているのではない。「じゃあ、よーいスタートで歩きはじめて、ここでストップしてください」と指示され、そのとおりに歩く。歩くことそのものが「目的」となる。歩くという行為がどこか身体になじまず、妙に浮いてしまうのだ。あるいは、身体に命令を出す脳が、「あれ? 私は今、どこへ行こうとしているの?」と混線し、動きがぎこちなくなるのか……。

 それを解消するには、作品世界の登場人物になりきり、「私は今、登校している途中なんだ。おくれそうだから、少し急がなきゃ」などと思いこむ必要があるが、エキストラレベルでそんな役作りをする人はふつういないと思われる。本気で役者を目指している、ストイックなエキストラの方なら、もしかしたらそういう「思いこみ」を実践しているかもしれない。たしかに「歩き方」がうまい人も存在する。

 同じように、喫茶店やレストランのシーンにおいて、奥のテーブルで談笑するエキストラの人たちも、けっこう好きだ。撮影の現場ではじめて会っただろうエキストラたちが、カップルなり、友人なりという設定で談笑するフリをする。楽しそうに会話することそのものが目的化し、なんだかものすごくぎこちなく見える。おそらく、どの程度のカップル・友人なのか、設定が曖昧なまま、「適当にしゃべってください」と指示されるからだろう。もちろん、声は出さずに、しゃべっている雰囲気で振る舞っているからわざとらしく感じられる可能性もあるのだろうが。

 さて、いったいこのことと、小説がどう関係するのか。私はこのエッセイの音楽の回で、創作ではキャラクターを重視していると書いた。キャラを重視するとは、その登場人物の性格やおかれている状況にのっとって、自発的に自然に行動させることが求められる。

 ところが、エンタメ小説ではストーリーも当然重要になってくる。ストーリーの展開上、どうしてもAという登場人物が、恋人のBに偶然出会ってもらわなければ困るので、C地点からD地点まで移動させる必要に迫られる事態が生じる。ストーリーを達成する目的のためだけの移動がものすごく不自然で、ぎこちないものとなると、当然読者もさめてしまう。変な歩き方のエキストラを発見したときのように、その作品に没頭していたのが、ふと冷静になってしまう状態に近い。

 ストーリーの流れと、登場人物の自然な行動がせめぎあってしまうことは往々にしてある。できれば自分が描くキャラクターには、ごくごく自然に歩き、会話してもらいたいと思い、登場人物たちが自由に動きだすよう気を配っている。