ファンタジー的な月世界
――『残月記』は双葉社の雑誌『小説推理』に2016年から19年にかけて掲載された3編を収めています。「月」を描く短編集というコンセプトはどのように決まったのでしょうか。
最初にいただいたのは「連作短編集を書きませんか」というお話だったんですが、僕は読むのも書くのも連作短編があまり得意じゃないんです。それで話は続いていないけれど、共通する要素がある短編を並べて本にすることにしました。短編集なら7編くらいがちょうどいいので、月火水木金土日をそれぞれ描いた作品で一冊にしたらどうかなと。それで1作目の「そして月がふりかえる」を書いたんです。
――えっ!? 「そして月がふりかえる」の月は、月曜日の月だったんですか。
そうなんですよ(笑)。ただ思いのほか長くなってしまい、7編書くというアイデアは諦めて、月で統一することにしたんです。それでも4、5編は書けるかなと思っていたんですが、2作目の「月景石」、3作目の「残月記」とどんどん長くなって、結局は3編で1冊ということになりました。
――もともと月というテーマにご関心はあったのでしょうか。
これを書き始めるまではなかったですね。「そして月がふりかえる」を書くにあたって、初めていろいろと資料を読んで、月を調べたんです。
――それは意外です。では月面を舞台にしたSF小説などの影響も?
ないですね。一時はSFをよく読んでいましたけど、最近そんなに熱心に読んでないですし。SFらしいSFを書きたいなという気持ちもありません。作品の中に月世界が出てきますが、それもSF的な感じではなく、むしろファンタジー的な、何でもありの月世界として描いています。
人生は油断できないもの
――「そして月がふりかえる」の主人公・高志は、家族とレストランに出かけ、月が裏返る瞬間を目撃してしまいます。月がふりかえる、という壮大なイメージはどこから生まれてきたのですか。
ネットで月について調べていた時に、たまたま月の裏側の画像を目にしました。その画像が加工されて凹凸が誇張されていたというのも大きいのですが、見慣れた表面に比べて、月の裏側はでこぼこしていて、すごく異質な感じがするんです。これが見えたら怖いな、というところから発想しました。
――非常勤講師の長いトンネルを抜け、やっと安定した生活を掴んだはずの高志は、恐ろしい事態に直面します。この本では3編いずれも、それまでひたむきに目立たず生きてきた主人公が、数奇な運命に翻弄されます。
それは僕自身の生き方が反映しているのかなと。僕は生まれつき悲観的なところがあって、人生はいいことがあっても油断できないという思いが強いんです。今は調子がよくても、一寸先には大変なことが待ち受けていて、一気に転落するかもしれない。そういう状況に陥った普通の人がどんな行動を取るかに、興味があるんですよ。もし僕がもっと楽観的で、順風満帆の人生を歩んでいたら、キャラクターの書き方も変わっていたかもしれないですね(笑)。
――「そして月がふりかえる」はかなり怖い作品ですが、小田さんはホラーもお好きですか。
割と読みますね。スティーヴン・キング、ロバート・マキャモン、クライヴ・バーカーなどの作品はそこそこ読んでいますし、ホラー系のアンソロジーを読むのも好きです。今は日本のホラーの名作を集めた『平成怪奇小説傑作集』(創元推理文庫)を読んでいるところです。
ただ「そして月がふりかえる」は怖い話を書こうとしたわけではなく、P・K・ディックの『流れよわが涙、と警官は言った』(ハヤカワ文庫)のように、主人公がもとの現実と似て非なる世界に放り込まれる話を書こう、と思ったものです。
――携帯電話を効果的に利用した、救いのあるラストシーンが美しいですね。
もともとはバッドエンドだったんですけど、担当さんに希望のある終わり方にしてほしいと言われて、ああいう形に書き直しました。結果としては直してよかったと思います。最初の原稿では、あまりにひどい話だったので。
思いも寄らないことが起こってほしい
――2作目の「月景石」には、月の風景が浮かんだ石が登場します。叔母の遺品であるこの石が、主人公の澄香を月世界に誘います。
石の話を書いてみたいと思い、資料を読んだことがありました。その中に風景石という表面の模様が風景のように見える石が紹介されていて、面白いなと気になっていたんですよ。今回、月というテーマと風景石が結びついて、別世界の風景が石に表れる、という発想になったのだと思います。
――社会生活を送りながらも、どこか日常になじむことができない。そんな人たちが夢の中の月世界に惹かれていく心理が、共感をもって描かれているように感じます。
僕自身がなぜこういう幻想的な話を書くのかといえば、現実に退屈しているからだと思うんです。何か思いも寄らないことが起こってほしい。澄香にもそういう願望があるんじゃないでしょうか。それで日常に飽き足りない思いをしている彼女が、叔母の遺した月景石のことを思い出して事件に巻き込まれていく、という物語になりました。
――主人公は眠りの中で訪れる異世界で、ある重要な役割を果たすことになります。それは現実なのか、夢なのか。どちらとも解釈できる書き方がなされています。
最終的には読者に解釈を委ねる、みたいな終わり方が好きなんです。はっきりしたエンディングよりも、開かれていて、考える余地があった方が印象的な読後感になるので、「月景石」でも「そして月がふりかえる」でも、これからまだ何かありそうだ、というところで物語を終わらせました。
圧巻の近未来ディストピア小説
――ところで小田さんの作品は、硬質でしなやかな文体も魅力です。この文体はどのように作りあげられたのですか。
自分では分からないですね。以前影響を受けた作家として、コーマック・マッカーシー、アゴタ・クリストフの名前を挙げていたんですが、僕の小説を読んだ方は「全然似ていない」という印象を持たれると思います(笑)。
なぜこの2人の名前を出したかといえば、それぞれの作風でしか成立しない文体を持っているからなんですよ。自分もそうありたいと思っています。一文が長くて分かりにくい、と言われることが多いんですが、それは大江健三郎さんの影響かもしれないな、と最近気がつきました。
――3作目の「残月記」は200ページを超えるディストピア小説。独裁国家と化した近未来日本を舞台に、月昂(げっこう)という不治の感染症に冒された者たちの愛と闘いが描かれます。
これは剣闘士を書きたいと思ったんです。それで月夜に身体能力がアップするという感染症を創作して、患者同士がコロシアムで闘うという話にしました。月光を浴びて強くなるということで、狼男のイメージも下敷きにしていますね。
――雑誌掲載が2019年ですから、コロナ禍以前に書かれたんですね。
パンデミックの話には前から興味があったんです。ゾンビ映画などではポピュラーな題材ですし、そうしたジャンルの一環として書いたつもりだったんですね。月昂者たちが受けている差別的待遇については、過去のハンセン病の記録などを読んで参考にしました。
――月昂者たちは病によって優れた創造性を発揮し、主人公の冬芽も木像を彫り続けました。病と創造性の関わりを描いた小説でもありますね。
表現全般にずっと興味があって、小説を書いているのもその興味の一環なんです。デビュー作の『増大派に告ぐ』以来、音楽家や画家を登場させてきたので、今回もその流れで病によって創造性が高まるという話になりました。自分はインスピレーションによって一気呵成に書き上げる、というタイプではないので、余計に狂気すれすれの天才芸術家に憧れを抱いてしまうのだと思います。
残酷な世界に生きる、名もなき人びとに寄り添う
――独裁政権に人生を奪われても、愛する女性のために冬芽は抗い続けます。残酷な世界と対峙する個の強さに、胸を打たれました。
「残月記」の冒頭で、これは「無名の男の生涯にひとすじの光をあてようという試み」と書いています。歴史の表舞台に出ることもなく、人目につかないところで虐げられ、命を落としていく。そんな人たちが世界に大勢いたんだろうなと。
現在でも内戦や民族浄化によって名もなき人たちが死んでいく。彼らに名前を与えたい、物語を与えたいという思いがあります。現実の前にフィクションは無力ですけど、自分の気持ちとして寄り添っていきたいんですね。
――「残月記」のラストシーンで、冬芽の作りあげた世界が示されます。この展開は小田さんなりの芸術観なのかな、とも感じましたが。
あの場面は確かに、物づくりをする人間にとって究極の境地です。僕は小説家として食べていきたいし、多くの人に作品を読んでもらいたいですが、それは表現者として不純なんじゃないのかという思いもあるんです。もし自分が作るものに絶対の自信があるなら、読者なんていらないのかもしれない。冬芽はその境地に達したわけですよね。羨ましいと思います。
――『本にだって雄と雌があります』以来、実に9年ぶりの新作ということもあって、『残月記』は本好きの間で話題沸騰中です。個人的にも今年の怪奇幻想小説の大収穫だと思っていますが、小田さんは読者の反応をどう受け止めていらっしゃいますか。
僕の作品はジャンル分けがしにくいと思うんですよ。『残月記』は強いて言えばファンタジーですが、多くの人が想像するようなハイファンタジーでもありません。喩えるなら、レストランのメニューに食べたことのない料理があるようなものなので、買って読んでくださった方にはただただ感謝です。博打をしてくださって、ありがとうと。
普段から本をよく読まれている方には、届いているのかなという感触はありますが、これから新たに読まれる方々が、どんな感想を持たれるのか楽しみです。前作に比べてタイトルが簡単なので、すぐに覚えていただけたのはよかったなと思います(笑)。