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「ケルト人の夢」書評 西欧の野蛮問うた外交官の胆力

評者: 藤原辰史 / 朝⽇新聞掲載:2021年12月18日
ケルト人の夢 著者:マリオ・バルガス=リョサ 出版社:岩波書店 ジャンル:小説

ISBN: 9784000614740
発売⽇: 2021/10/29
サイズ: 20cm/535p

「ケルト人の夢」 [著]マリオ・バルガス=リョサ

 絞首刑は免れてほしい、と私は途中から願っていた。主人公の外交官ロジャー・ケイスメントは実在の人物であり、その最期も知っているが、にもかかわらず、なぜか期待してしまう。助命嘆願の声も多い。内閣で減刑を支持する人間がたった一人いれば減刑される。彼に重要な仕事を任せてきた外務大臣のグレイも閣僚の一人だ。
 たしかに、外交官として仕えていた英国を裏切り、祖国アイルランドの独立のために第一次世界大戦中に敵国ドイツと手を結ぼうと画策した彼の罪は軽くない。彼も軽率だった。米国で出会って愛しあい、ともに活動したノルウェー人の男は実はスパイだった。情報は漏れていたのだ。しかも、ケイスメントが数々の同性愛の行為を記したとされる日記の一部を政府が暴露したことは、それが道徳的に許されない時代には致命的打撃だった。
 けれども、そもそも彼は、その高潔な精神と胆力で世の中を変え、称賛を浴びた人物であった。アフリカのコンゴとアマゾンのゴム採取業者やその取り巻きたちが、労働者やその家族を虐待していたことを世に知らしめたのである。
 コンゴでは「残っているのは皮膚と頭蓋骨(ずがいこつ)だけでまるで生気も、脂肪も、筋肉も抜き取られてやつれ果てた、死体のような顔」の人びとの苦難を聞き取り、歴史に残るレポートを書き上げた。鞭(むち)による殴打や手の切断。彼から詳細な話を聞かなければ、友人のコンラッドは名作『闇の奧』を書くことはできなかっただろう。
 強姦(ごうかん)、人狩り、殴打、放火などアマゾン先住民に対する西欧の野蛮も暴き出した。次第にケイスメントは、英国が支配するアイルランドをコンゴやアマゾンになぞらえ始める。文明と野蛮の図式を揺るがした彼の功績を考えれば、絞首刑にするには惜しい人物だと私は思ってしまった。
 だが、それでも最後、独房にたたずむ彼の耳にいつもとは異なる足音が響く。
    ◇
Mario Vargas Liosa 1936年、ペルー生まれ。作家。『都会と犬ども』『緑の家』など。2010年、ノーベル文学賞。