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「あいつゲイだって」松岡宗嗣さんインタビュー アウティングの危険、知っていますか? 転落死事件を追った当事者の自問

松岡宗嗣さん=家老芳美撮影

自分の帰る場所がなくなる恐怖

――この本を書こうと思われた経緯から教えてくださいますか。

 2015年に一橋大学で起きた「アウティング事件」です。1年後に裁判が提起されて、控訴審判決が2020年の11月25日に出され、終結しました。また、いわゆる「パワハラ防止法(改正労働施策総合推進法)」ができて、パワハラの中に「アウティング」が含まれることになり、2022年4月から中小企業でもその防止対策が義務化されました。「アウティング」をめぐる事象・問題について整理する必要があるんじゃないか、と考えました。

――松岡さんご自身は、高校卒業後の春休み、ゲイであることを友達にカミングアウトされたのですね。

 高校時代はカミングアウトできず、一方でずっと隠しておくことも嫌だなと思っていたんです。テレビでいわゆる「オネエ」タレントの方々の活躍を見ていたこともあり、「笑いにするか、完全に隠すか」しか方法がないと思っていました。自ら「ホモネタ」で笑いをとりながら生き延びつつ、「ガチなの?」「本当なの?」って聞かれると、冷や汗ダラダラで笑ってごまかす、みたいな高校生活だったんです。

 名古屋出身の私は東京に大学進学のため上京が決まっていて、ある種、逃げ場ができた。「受け入れられなくても、何とかなるだろう」という思いもあり、カミングアウトすることになりました。友人は、「びっくりした」「冗談だと思っていた」って。でも、「宗嗣は宗嗣だし、別にいいんじゃない」と言ってくれた。セクシュアリティは自分を構成する要素の一つに過ぎないはずだけれども、自分にとって重要なアイデンティティの一つでもあるし、悩みとしても大きいもの。でも、友人からそう言ってもらえて、カミングアウトへの恐れやモヤモヤが、少しずつ晴れていきました。

――たしかに、小さな嘘、大きな嘘を永遠についていて、良心の呵責が生まれますよね。私がカムアウトしたのは、「自らの存在を認めてほしい」というより、嘘に耐えられなくなった側面がありました。

 ありますよね。自分や、パートナーの関係性について嘘をつくだけでなく、自分の思い入れ、経験をガラッと変えて嘘をつき続けなきゃいけない。しかも瞬時に。たとえば、好きなアーティストが当事者だったり、歌詞が同性カップルを描いたりとか。「なんで好きなの?」と詮索されると怖いから、そういうものも全部ひっくるめて隠す。嘘をつき続ける。私も感じる時がありますね。

――この本の冒頭では、松岡さんが初めて「家族間」で「アウティング」を経験した時のことが書かれています。怖さはありませんでしたか。

 たぶん、受け入れてくれるんじゃないかな、という気持ちはどこかにありました。週末に親が見ているDVDや映画を見てみると、「glee」など多様な性のあり方の登場人物が出ていた。ただ、それでも、1%でも受け入れられない可能性はある。その1%に当たってしまったら、自分の帰る場所がなくなってしまうのではないかという恐怖はありました。

運命の分岐点に立っている

――この本では「アウティング」という言葉について、松岡さんは、ときとして「命に関わる問題である」と記していますね。我々当事者はわかっていても、ご存知ない読者も多くいらっしゃると思います。

 「アウティング」という言葉自体は、学生時代に知りました。その時に、敢えてわざわざ「アウティング」という言葉があることに、何の違和感も覚えなかった。肌感覚として、「暴露されることの恐怖、リスク」を、既に感じ取っていたからだと思うんです。当時会っていた同じセクシュアリティの友人関係ですら本名を隠し、ハンドルネームで呼び合っていた。それぞれ生活基盤があって、セクシュアリティを暴露されるリスクを知っていたからだと思うんです。

 けれども、それがいわゆる社会問題として大きく提起されたのは、やはり一橋大学の事件がきっかけだったと思います。私自身、同世代の、同じセクシュアリティの、しかも出身地も同じ当事者が亡くなってしまったことに、すごく衝撃を受けたんです。

 「アウティング」って、ものすごくリスクをはらんでいる行為。それを突きつけられた。過去に自分自身は、「アウティング」されたことも、してしまったこともある。「運命の分岐点」に、今でも多くの当事者が立っているという現実が続いていると思います。

――ちょっと間違っていたら、少し何かが狂っていたら、自分もその道を選んでいたかも知れない。身をもって感じますよね。

 そうですね。本当、紙一重だったんだなっていうことを改めて感じますよね。

「私は彼になり得た」

――この本で詳述されている、一橋大学の事件について、「彼は私だったかもしれない」と。

 はい。

――私も、胸の潰れる思いで報道に接しましたが、一方で大都市でも地方でも、声をあげる性的マイノリティの団体は多数出てきていますよね。「ちょっと調べれば、そんな極端な道を選ばなくても」って。

 そこは私も思いました。特に東京においては、LGBTQ関連の活動をしているNPOや電話相談の窓口があったり、ツールやリソースはあるにはある。けれども「つながれなかった」。つなぐことができなかった周囲の環境や大学の責任は大きいと思います。報道によると、亡くなったAさんはすごく活発で、仲間もたくさんいたそうです。

 自分自身、高校時代はクラスで中心的な立ち位置にいたと思っています。一方で、「マッチングアプリ」やTwitterなど、オンラインのツールを使って、家族や学校の友人には嘘をつき続けながら、街に繰り出して、同じセクシュアリティの人と出会った。

 学校など、いわゆる日常的なコミュニティは「充実させなければいけない」「自分の本来の居場所にしないといけない」。自分のセクシュアリティの部分は押し込み、明かさずに暮らしていく。どこかちょっと人格が乖離していく感覚というか。日頃生きている学校の友達、家族の前での自分と、同じゲイの人と出会う自分とでは、後者がすごく「劣位」に感じてしまう。おかしいことだけれど、自分で自分を受け入れられない部分がある。

――たしかに、そうかも知れません。前者の部分が明るければ明るいほど、そこでやっていきたい。自分の中で、「恥」「マイナス」に思う後者に正面から向き合いたくない。

 そうすると、「なるべく前者を充実させよう」という気持ちが働くと思うんです。悩んでいることを見て見ぬふりをする。自分の中だけで考え、閉じ込めるっていうのは、起こり得るのかも、と、感じているんです。日常生活、いわゆるマジョリティの中での生活に溶け込めている”からこその困難もあるのではと思います。

問題認識ほとんどなかった一橋大

――学生Zとご遺族の間で和解が成立し、いっぽうで大学とは裁判が続き、高裁判決では、原告の訴えを棄却しつつも、「アウティングは人格権やプライバシー権を著しく侵害する、許されない行為である」との文言が裁判長から出ましたね。あの時、松岡さんはどう思いましたか。

 判決の日は裁判所にいたんですけれども、「アウティング」という行為が、法的にも許されないということを、しっかり判断してくれたことは大きかったと思います。ただ、大学の責任は問われなかったですし、Aさんの命が戻ってくるわけでもない。法廷の雰囲気も重々しかった。

 その後、ご遺族は「アウティング行為が許されないものだと判断してくれた」ので「上告はしない」という判断をされた。そのことは私も、ご遺族のお考えを伺って納得しているんですけど、問題が解決したわけではない。あくまでも「アウティング」が問題だと裁判所が示した事実を重く受け止めるべきだな、と思いました。

――大学当局とのやりとりを見る中で感じたことを、何か覚えていますか。

 ご遺族が当時、情報を教えてほしいと言ったのに、大学側は秘匿しました。学生に対してはご遺族とコミュニケーションを取らないように指示していたそうです。大学側が責任を逃れるためという側面もあると思います。もし自分がそのLINEグループにいた友人であったなら「自分も何かできることがあるんじゃないか」と考えると思うんですけど、それをしなかった。さらに「Aさんに貸していたものを返せ」とご遺族に連絡をするような学生もいた。

 法廷での大学側の受け答えを傍聴していると、AさんとZさんの個人間の”トラブルだということは皆が認識し、対応していたんですよね。でも、背景には異性愛中心主義の社会構造があって、セクシュアリティが暴露されることが、命を落とす可能性があるほどの問題だとの認識がほとんどなかったということは伝わってきました。

自治体で禁止条例、意義は大きいけど…

――高裁判決、そして事件の経過が大きく報道されたことを受け、東京都国立市をはじめとして、数々の自治体で条例制定の動きが出ていますね。

 国立市が「アウティング禁止」を条例で定めた意義は、すごく大きいと思っています。まさに一橋大学が位置する自治体が率先して問題を取り上げた。「性的指向、性自認などに関する公表の自由が個人の権利として保障されること」。ハッとしました。「何で『アウティング』は問題なのか」を突き詰めていくと、プライバシーの問題について語らざるを得ない。個人情報の取り扱いについても、自治体の中で国立市がいち早く条例を制定していました。この歴史は、今回の「アウティング事件」に対する国立市の対応につながっていたのではと想像しました。

――可視化されたことで、多くの人が「こんな問題が眠っていたのか」と気づいた側面もあります。

 アウティングが「問題だ」とすら認識されていない現状のなかで、自治体がルールとして「してはいけないものだ」と明記してくれることは大事だと思います。ただ、なんとなく自分の行動が制限されて、アウティングしてしまうと罰金、懲役刑になってしまうのでは、といった不安の声がありますが、実際には刑事罰などが課されるわけではありません。でも「アウティング」が起きた時、甚大な被害をもたらし得ることは事実です。たとえば訴訟の法的な根拠になるとか、自治体の苦情処理として救済措置が取られるとか、そういった仕組みは今後も考えていく必要があると思います。

――この本の最終章では、「社会は勝手に変わらない」という題で、性的マイノリティに関して積極的に著述しているジャーナリスト・北丸雄二さんの言葉を引いていますね。「『敢えてカミングアウトをしなくてもいい社会』は、敢えてカミングアウトをしてきた人たちによって作られてきた」。この言葉を引用した思いとは。

 本書を貫く考え方として、「アウティング」が問題になるのは、社会に根強く差別や偏見が残っているから。差別や偏見をなくすとどうなるかというと、たとえば「私がゲイです」と言っても、「それが何ですか」っていうような社会。

――「私は獅子座です」というのと同じように。

 本来解決すべきは、「アウティング」という問題よりも、むしろ、その根本にある差別や偏見の問題です。ただ一方、「アウティングという言葉がいらないほど、性の多様性が当たり前な社会になればいい」という語りが、今、起きてしまっている苛烈な被害を覆い隠し、矮小化してしまう危惧も感じます。そういった理想的状況を見つつ、現状を抱きとめる必要があることを、この本で伝えたい。

 「今、何で自分はこうした本を書けているのか」「なぜ自分はオープンにできるのか」。それは先陣を切って道を作ってきてくれた人がいるからです。誹謗中傷を受けながら、または、命を落とす可能性、実際に命を落とした人たちの後ろに、今、自分が生きている。

 「その思いを受け止めて、カミングアウトして社会を変えよう」。そう訴えることもとても重要ですが、カミングアウトした時に突然、「生きやすさ」が魔法のように訪れてくるとは言い切れない。むしろ突然降ってくる不利益、差別、攻撃、暴力がそこにはある。目の前に起きている被害をなくすためにどうすればいいのか。その曖昧で複雑な現実を具体的にどう対処するか考えたい。そんな思いもあって、北丸さんの言葉を引きました。

まだ、こぼれる命がある

――性的マイノリティに対する理解が進む流れを見つつも、「で、自分の周りの人は?」と考えると、いまだに松岡さんほどオープンにできないでいるんです。当事者団体や行政の尽力のおかげで、渋谷区、世田谷区などが先陣を切り、「パートナーシップ制度」が全国各地の自治体で広まっています。ところが、自分は情けないことに、制度を利用する段階にまで踏み切れない。

 まったく「情けない」ということはないと思います。私自身は、オープンにしているんですけど、たとえば今、約6年交際しているパートナーは、はほぼ友人や同僚にカミングアウトしていないんですよね。「嘘」をつき続けていて、地元で手をつないで歩けない。周りの目をすごく気にしています。ビクビクしてしまう。一緒に住んでいる家も、「関係」でいうと「友人」という間柄で書かれている。

――「シェアハウス」をしているかのように。

 「友人」って書いた時に、お互い目を合わせる時の、なんとも言えない感じ。そういうことも感じながら生きているんですね。一方で、自分自身の人生を振り返ると、環境に恵まれた部分、先を歩いてくれた人たちの活動の蓄積の上に立っているな、と実感します。「自分にできることは何だろう」と思う時に、法律や制度を整えることで、次の人たちが安心に生きられる社会が作れたら良いな、という気持ちから活動しているんです。

――先達よりは、私たちの方が生きやすくなった。それでも、まだ、こぼれる命がある。

 本当そうですよね。数年前、私も友人を自死で亡くしました。もちろん自死の理由がセクシュアリティだけとは言い切れないけれども、そんな話を、年に何回も聞いたりもする。ただ、日常生活の中でマイノリティでない友達と話している時に、もちろん言っていないだけかもしれませんが、そんな簡単に自分の友達が亡くなってしまった話は出てこない。「死」がリアルに当事者コミュニティの中で出てきてしまうことにも、「この社会は何なんだ」と思ってしまいます。

――最後に、それにしても、衝撃的なタイトルにされましたね。「あいつゲイだって」。

 当事者ではない人で、「良かれ」と思ってこうした言葉を言ってしまった、聞いてしまったことがある人にドキッとしてほしかったんです。それでつけたんですけど、これを書店で見た当事者の人は、過去のアウティング被害を想起したりフラッシュバックが起きたりする人がいるかもしれない。また、まったくカミングアウトしていない当事者が友人と書店でこの本を見て、まさにからかい”の言葉を投げつけられるのではと生きた心地がしない人もいるだろうな、と思うと、すごく悩みました。書店で手に取れないという人もいると思いますが、そういった場合にはぜひ電子版で読んでほしいと思います。

――告白してしまうと、書店で買い求めた時、「ブックカバーをかけてください」と言ってしまった。

 わかります。自分も書店で買う時に無意識に裏返しちゃったんですよ。そんなこと、普段はあまりしないんですけど、自分で書いて、自分でタイトルをつけているのに。

――でも、まさに「そこ」こそが、この本の主題。

 まずは当事者ではない立場の人で、ちょっと関心があるけれど、「たいしたことない」と思っているとか、そんな人にも届いたら、そこから広がっていってくれたらと思いますね。大切な「命」が失われないために、被害を防ぐための一助になれたらと思っています。

インタビューを音声でも

 好書好日編集部が毎週木曜日にお届けしているPodcast「好書好日 本好きの昼休み」でも、松岡さんのインタビューをお聴き頂けます。