「にくのパイにされた」衝撃の挿絵も
——川上さんが“ピーター”と出合ったのは、いつごろだったのでしょうか。
代表的なおはなしは読んでいて、好きなキャラクターもいましたが、「子どもの頃から全巻がそろっていて、通しで読んでいました」という読者ではありませんでした。なので翻訳のご依頼があったときは、うれしい半面、驚きもありましたね。お話をいただいた後、家にあったシリーズと、あまり知られていない巻もあわせてオリジナル刊行順に通読し、英語の原作も読んでみたんです。そうしたら、やはり詩の部分に強く惹かれました。まだお引き受けするかどうか、お返事をさしあげるまえだったのに、「この詩は、韻みっつ、拾えそうやな」とか、あれこれ訳しはじめてしまっていました。
長いシリーズを一人で翻訳することへのプレッシャーはありますが、それ以上に、難しさとか、うんうん唸って考えたりとか、そういう状況のなかで、言葉をみつけて文章をつくっていくことじたいを、楽しんでみたいと思っています。
——新版は、従来のバージョンにはなかった挿し絵が復活したり、初版の色彩に近づけたりするなど、よりポターの原作に忠実なものとなっています。
これまでは装本の関係などで削除されていた数々の挿し絵が、新版では復活しています。たとえば、以前の『ピーターラビットのおはなし』だと、「にくのパイにされた」ピーターのおとうさん、というくだりの挿し絵は、子どもには衝撃的だろうということもあり、カットされていたんですよね。
この、マグレガーおばさんがパイを作っているシーンの絵じたいは知られていますが、日本では初めて絵本のなかに入りました。この絵があるのとないのでは全く印象が変わると思います。この一枚がとりわけ最初の物語に差し挟まれることで、おかしみがありながらも、人間と動物の関係、コミュニティーにおける原理的な理不尽さが底に流れている「ピーターラビット」の世界観が、ぐっと立ち上がってきます。
——人間側から見ると、畑を荒らすピーターはかわいいペットではなく、「害獣」ですよね。動物と人間のやり取りのシーンでは、まったく甘さがない、むしろ冷徹とも取れるような描写もあります。
害獣といわれると一瞬どきっとしますが、確かにそうなんですよね(笑)。英国児童文学で多くみられた「擬人化された動物ファンタジー」でありつつも、動物に対するリアリスティックな視点と描写があることが、「ピーターラビット」シリーズの魅力の一つだと思います。
翻訳の準備と並行して、作者のポターについての資料を読み進めていくうちに、動物たちとの接し方にも、彼女特有のものがあることに気づきました。19世紀後半に、英国の富裕な中産階級の子女として生まれたポターは、学校には一切行かせてもらえずに、家庭教師に教育を受け、抑圧的な両親からは周囲の子どもたちとの交流を禁じられていた。同世代の友人が一人もいない孤独な環境のなかで、動物との関係性を深めていったわけです。
年に数カ月、休暇を過ごすスコットランドでは犬や子牛、豚たちをかわいがり、その姿を絵に写し取る一方で、弟と一緒に皮をはいだ動物を鍋で煮て、残った骨組みをデッサンすることもあった。そうした徹底的ともいえるアプローチが、のちの「ピーターラビット」創作にも生かされています。挿し絵をじっくり見ていると、どれも本当につよいな、と感じますし、理科的な描写力に圧倒されます。デッサンはもちろん、とくに衣類の生地の細部と、描きわけられた毛の質感の表現は極まっています。23作全部を訳し終えたときには、わたし自身も、描写についての認識や、「動物と人間」のリレーションシップに対する考え方が変わるのではないか、という予感があります。
「おもしろさ」を支える技術
——3月に配本される第1弾は、『ピーターラビットのおはなし』のほか、『赤りすナトキンのおはなし』『グロスターの仕たて屋』の3作です。翻訳されるときに苦心されたのは、どんなところでしょう?
いちばん時間がかかり、かつ楽しいのは、物語に挿入される詩やわらべ歌などの「韻」の部分をどう日本語に訳していくかですね。たとえば、『赤りすナトキンのおはなし』。主人公は湖のそばの森に住む、りすのナトキンです。湖の真ん中にある島には、ふくろうのブラウンじいさまが住んでおり、仲間のりすたちはお土産を持参する代わりに、じいさまの許しを得て、島にある木の実を取らせてもらっているんですね。ところが、ナトキンだけはいつも手ぶらで、じいさまに対してなぞなぞを出して挑発する……。英国らしい皮肉と風刺に満ちた物語です。
「労働者階級のりすVS.地主のふくろう」という構図は普遍性かつ、今日性がありますよね。たとえば、荷物を抱えたりすたちの体格描写の鋭さ、容赦のなさ。日々の労働によって発達していく肩から背中にかけての筋肉の質感、毛のばさついた感じなど、ほんとうに徹底しています。そうした圧倒的な描写に息をのみながら、きれいに韻を踏んだなぞなぞの部分、詩的な部分を読むと、ポターの手数の多さ、完璧を目指す志の高さが、ほとんど恐ろしくなるくらいです。
でも、それ以上に、ポターは面白い。笑えるんです。生活のなかで、ふざけること、茶化すこと、笑えることの重要さに貫かれていて、誰が主人公の本でも、「このテンションはやばいやろ」とか「この返しはすごいやろ」とか、ほんとに笑ってしまうんです。たとえばナトキンであれば、ブラウンじいさまを煽るやりかたとか、そしてその後をふくめて、あれはもう、うちの9歳の子どもが見ているゲーム実況のバトルの顛末そのものですよ。もう、何周もまわっていつの時代のなにを読んでるのか意味がわからない(笑)。そんなふうに、いろんな角度から味わうやりとりとか、キャラクターとか、物語そのものがとにかく面白くて、そして素晴らしい技術がその世界を支えている――その雰囲気が伝わったらいいなと思っています。
——新訳ではルビ付きの漢字も増え、より幅広い年代が読みやすくなっているように感じます。
今回の訳では、あえて漢字にしたところも割とあります。でも、「全ページを通してこの漢字に統一」ということではなくて、絵本を開いたときに見える漢字とひらがなのバランスを優先しています。
今までよりも漢字を使おうと思ったのは、この絵本が小さな子どもたちに「表意文字としての漢字」に出あうきっかけとなったらいいな、という気持ちもありました。たとえば、「森」という漢字は「木」がたくさん生えていることを表しているから森なんだな、と目で感じることができる。「青」や「胸」など、子どもたちがビジュアルとしてもその意味を受け止められるかなと思ったものは、漢字で表しています。
ほかにも心がけているのは、原作が書かれた時代のリアリティーを損なわないことを前提にした、現代の感覚にあう言葉選びです。たとえば『ピーターラビットのおはなし』で登場する“Mr. McGregor”は「マグレガーおじさん」、これまで「マグレガーさんのおくさん」と訳されてきた“Mrs. McGregor”は「マグレガーおばさん」にしました。
ポターの思考の流れを感じてほしい
——シリーズ全23作のうち、これまで訳して特に気に入っている作品や、翻訳が楽しみな作品はありますか?
今ちょうど、6冊目の翻訳に取りかかっているところなんですが、それぞれストーリーに個性があって、どれもすばらしい。ただ、これまで訳したなかで、とくに印象に残っているのは、3作目の『グロスターの仕たて屋』ですね。
主人公はグロスターの貧しい仕たて屋さん。クリスマスの納期に間に合うよう、グロスター市長の上着を作り始めるんですが、高熱を出して寝込んでしまう。そうすると針と糸を持ったねずみたちが現れて……という不思議なおはなしです。ポターが知人に聞いたという実話を元に書いた物語で、本人もすごく気に入っていたようです。
仕たて屋さんのおはなしなので、生地の種類とか、色とか呼びかたとか、当時のファッションから推し量らなければならないところもあって、そういう細部を理解するのがたいへんでした。たとえば、私家版と、出版社から出したものでは色の表現が一箇所だけ違っていたりとか、チョッキのボタンの数にも当時のトレンドがあって、ポターがじっさいにどこでどんな展示を見ていたのか、執筆時になにを参考にしていたのかなど、シリーズ全体の監修をしてくださっている河野芳英さん、また校閲者や編集者が、とても重要な資料を集めてくれました。『グロスターの仕たて屋』は、ピーターやベンジャミン・バニーが活躍するものと比べると日本では知名度が低いんですが、じっさいの町を舞台にした、素晴らしい細部に満ちた作品だと思います。ちっとつばをはいたり、しゅんとして改心したりする猫のシンプキンも、ほんとに最高です。
ポターはこれを書くために、実際の仕たて屋さんの外に立ち、そのとき自分が着ていたコートのボタンを引きちぎって、「ボタンの修理をしてほしい」と言って入っていったそうです。そして、店の内部や仕事の道具、作業をじっくりと観察したわけです。職人が、どんなふうに針を運んで、どんなところで仕事をしているか。生地と刺繍の絵の緻密さ……糸のふくらみ、レースの質感、ことばと絵の両方で、ちょっと狂気を感じさせるくらいの描写です。
——新しい「ピーターラビット」シリーズを、読者にどのように楽しんでもらいたいですか?
今回の新訳の大きな特色の一つは、イギリスのオリジナル版にあわせた作品番号がついていることです。第1回の配本となる『ピーターラビットのおはなし』『赤りすナトキンのおはなし』そして『グロスターの仕たて屋』も、ポターが発表したのと同じこの順番で、読者にご紹介できることを、とてもうれしく思っています。
全23作を通して読めば、1人のエクストリームな作家が、どういう思考の流れで、このシリーズを書き進めていったのか。そうした「作家の必然性」みたいなものも、大人の読者には感じてもらえるんじゃないでしょうか。もちろん、本は本だけで成立するものですから、好きなときに好きなところだけ読むのもいいですよね。絵を眺めるだけでも楽しめます。子どもから大人まで、読み手によって多様な読み方ができる、名作ならではの“懐の深さ”を味わってもらえれば、とてもうれしいです。