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「教える」とは、耐えて待つこと 青来有一

イラスト・竹田明日香

不安・いらだちとの闘い、子育ては親育て

 赤いランドセルを背負い、黄色の通学帽をかぶった小学校1年生か2年生の女の子が、スーパーマーケットの精算機のディスプレーをまっすぐにあおぎ見ていました。マスクで顔の半分は隠れていますが、黒々とした眼は真剣そのもの。足もとの床にスケッチブックをいれた薄い手提げカバンを放り出し、手にした丸い財布から無意識に指で硬貨を出したり入れたりして迷っているようでした。

 個人の商店なら子どもがおつかいで買い物に来たときなどは店のひとが気づかってくれますが、大規模なスーパーマーケットなどでは混雑しているときには店員も客の対応で手いっぱいで、子どもの相手などゆっくりできません。

 特に最近は完全なセルフサービスや、レジでバーコードを店員が読み取り、支払いは精算機で客がおこなうといったところも多く、店員の数にも余裕はありません。

     *

 レジでカゴの中の買い物の読み取り処理を待っているとき、その小学生に気がつきましたが、大きなスーパーマーケットなので親があたりにいるだろうと考えて、隣の精算機で自分の買い物の支払いをしました。

 精算機のディスプレーの右側には「合計」「お預かり」「おつり」が表示されて、左側には「よろしかったら『おわり』をおしてください」とメッセージがでますが、小学校低学年の子どもがタッチパネルにどこまで対応できるのかわかりません。近ごろの子どもたちは小さい頃からタブレットやゲームの操作になれていて直観的に操作できるのかもしれませんが、慣れてしまえばなんでもないことも初めて使うときに大人だってとまどいます。そもそも小さな小学生はタッチパネルに手が届くのでしょうか――。

 精算機の反対側のカウンターで買い物をエコバッグに詰め、その子がまだ立ちつくしていたので、さすがに声をかけてみようと顔を上げたとき、「眼」に気がついたのでした。カウンターの向こうはガラス張りで商店街の通りに面しています。小学生の母親らしい女性が、赤ちゃんを抱っこ紐(ひも)で抱いて、ガラス越しに少女を睨(にら)んでいるのでした。こちらが見つめても眼が合うこともなく、その眼は少女以外を見てはいません。

 たぶん娘に買い物を体験させようとしたのか、精算だけまかせて先に店を出て待っているのでしょう。マスクで表情はわかりませんが、見守るといった余裕はとても感じられず、不安、心配、いらだち、怒り、焦り、祈りといった渦が巻いているらしい、その女性の心の激しいゆれが、透明な波となってどっと押し寄せてきた感じがしました。

     *

 子どもができるようになるのを待つというのは、自分との闘いです。温かい目でゆっくり見守ることができればいいのですが、子どもが未熟なら親も未熟、子育ては親育てでもある。

 それは親子関係にかぎってのことではなく、だれかに教える、伝える、育てるといった立場になったならだれもが経験する葛藤のはずです。教師と生徒、上司と部下、コーチと選手――、知識や経験を次に継承していこうとするときには常につきまとい、熱中すればするほど爆発寸前になって、それを耐えて互いを育てていくしかないのです。「待つ」とはなにもしないことではなく、とてもクリエーティブな時間を生きることかもしれません。

 女性の厳しい視線に気がついて声をかけるのをためらっていたら、レジの手があいた若い男性店員が、少女が立ち尽くしている精算機のわきからひょいと顔を出し、頭をちょっと逆さまにしてディスプレーをのぞきこみ、画面をひょいとタッチしました。

 小銭がじゃらじゃらと出てきて、女の子は不安そうにそれを財布に入れ、外で待つ母親のもとにあたふたと走っていきました。春の気配をようやく感じはじめた街角で出会った小さなドラマでした。=朝日新聞2022年3月7日掲載