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浅田次郎「母の待つ里」 『噓の故郷』で救済される魂

 「見るなの座敷」という昔話がある。ある男が桃源郷に迷い込み、楽しい一夜を過ごすのだが、見るなと言われた座敷の襖(ふすま)を開けた途端に現実に引き戻される。

 この昔話は私たちは現実の辛(つら)さを忘れるために桃源郷を求めるが、それは邯鄲(かんたん)の夢に過ぎないことを教えてくれる。

 本書に登場する男女は、勝者敗者を問わずいずれも中高年で現実の生活に疲れ、人生の意義を見失い、深い喪失感を抱いている。彼らは、法外な会費を必要とするクレジット会社のプレミアムなサービスである「噓(うそ)の故郷」を求める。1泊2日で50万円という高額の桃源郷。その地で彼らは、現実の世界では考えられないほどの安らぎを得、本来の自分を取り戻す。これだけだとありがちな現実逃避物語なのだが、そんなに単純ではない。私は、読んでいる間中、ひりひりとした緊迫感に体をこわばらせた。というのは、こんな「噓」はいずれ破綻(はたん)するのが常識だからである。いつ「見るなの座敷」の襖を開けるのだろうか。その時、彼らを襲う絶望感を想像すると、切なくて、悲しくて、恐ろしくさえあり、結末を見たくない。

 「噓の故郷」に身も心も委ねる側に喪失感がある一方、「噓」を演出する「噓の故郷」の住民側にも埋めがたい喪失感がある。それは「現実の故郷」が少子高齢化で失われてしまった日本の現実と重なる。特に物語の最後で明らかになる87歳の「噓の母」ちよの喪失は暗く、深い。しかし彼女には喪失感を希望に変える魔法がある。そのためたとえ彼らが「見るなの座敷」の襖を開けたとしても彼らの心は希望で満たされていくことだろう。

 ちよが彼らに語って聞かせる昔話の豊潤な岩手の方言は、まるで音楽を聴いているようで私たちの国は、まだまだ捨てたもんじゃないと実感させられる。現代人の魂の救済の物語である。どんどはれ(めでたしめでたし)。=朝日新聞2022年3月19日掲載

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 新潮社・1760円=初版8万部。1月刊。「小説に登場する還暦世代を中心に読まれている。女性比率がやや高め」と担当編集者。