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戦争と憲法 何を守るのか、それが問題だ 早稲田大学教授・長谷部恭男

ウクライナ軍とロシア軍が戦闘した通り=8日、ウクライナ・キーウ近郊ブチャ、竹花徹朗撮影

 政治哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、その遺稿「戦争法原理」において、戦争において攻撃の対象となっているのは敵国の社会契約、つまり憲法原理だと言う(『人間不平等起源論 付「戦争法原理」』坂倉裕治訳)。憲法原理が根底的に異なるからこそ国家は対立する。共産主義国家はファシズム国家と、全体主義国家は立憲主義国家と対立する。第2次大戦でアメリカが日本に憲法原理の根底的な転換を求めたのも、それなくしては両国の間に安定した友好関係が成り立ち得ず、戦争が終結し得なかったからである。共産主義陣営と自由主義陣営が対立した冷戦も、共産主義陣営がリベラルな議会制民主主義国家になることで終結したはずであった。

 しかしロシアは、今も議会制民主主義を受け入れていない。米イェール大学教授のティモシー・スナイダーが指摘するように(『自由なき世界』池田年穂訳)、プーチンが演説でたびたび引用する思想家イヴァン・イリインが唱えるのは、救世主により指導されるロシア民族が、民族の浄化と敵対者との戦闘を経て、最終的に無限の神との合一に至ると主張するあからさまなファシズムである。ヘーゲル思想を歪曲(わいきょく)したヘーゲル左派(マルクス主義)もヘーゲル右派(ファシズム)も、現状で受容されている法や道徳は、歴史をさらに高度な段階へと進展させる「革命」によって破壊されると説く。国際法も人道法も守るにはあたいせず、あからさまな噓(うそ)をつくこともさしたることではない。

抗戦選択の意味

 ウクライナのゼレンスキー大統領が英国議会での演説で、『ハムレット』の‘to be, or not to be’を引用したことが伝えられている。日本では「生きるべきか、死ぬべきか」と訳されることが多いが、そもそもの文脈に即して言えば、「(運命に逆らって)闘うべきか、それとも(運命に)屈従すべきか」と訳すべき台詞(せりふ)である。ゼレンスキーは絶体絶命に見える運命に逆らってでも、ウクライナの憲法原理を守るため徹底抗戦すると宣言した。

 屈従することはロシアの属国になること、選挙はすべて見せかけで、政敵は暗殺されるか投獄され、選挙結果も誤魔化(ごまか)され、抗議デモの参加者は暴力的に抑圧され、独裁者がいすわり続けて彼とその取り巻きが国富の多くを猫ババする国になることを意味する。それとも、数年毎(ごと)の選挙で為政者を交代させ、公正な選挙で選ばれた議員による審議と決定で国政を運営するまっとうな、ヨーロッパ型の議会制民主主義国家になるかの選択である。命をかけても徹底抗戦するというゼレンスキーのことばが理解できない人は、この選択の意味が理解できない人である。

立憲主義をこそ

 日本の安全保障と憲法についても考えるべきことは多い。何の安全であり、何の保障なのか。突き詰めて言えば、守るべきは現在の憲法原理である。日本のリベラルな議会制民主主義を断固として守るという気概が今の日本国民にあるか否かが問われている。だからと言って、どんな手段をとってもよいわけではない。あくまで憲法の定める枠内で冷静な議論を尽くし、理性的に判断することが求められる。その意味でも、集団的自衛権をめぐる安倍政権による理を尽くさない憲法解釈の変更は、憲法原理に対する自傷行為であり、日本の立憲主義を深く傷つけた。何をいかに守るべきかが改めて問われている。

 憲法9条が必要最小限の自衛力の保持を禁じているわけではないことを分かりやすく説明するのが、木村草太著『自衛隊と憲法』(晶文社・1595円)である。=朝日新聞2022年4月30日掲載