外国人の日本旅行記で、西の京都と同じくらい注目度が高いのはどこだろう。それは東の日光だ。
1878(明治11)年に日本を訪れたイギリス人旅行家イザベラ・バードは『日本奥地紀行』(1885年/高梨健吉訳・平凡社ライブラリー)で、〈日光は「日の当たる光輝」を意味する〉と書き、男体山を望むこの地の自然とともに、東照宮の威容を社殿の装飾のひとつひとつに至るまで詳細に報告した。
フランス海軍の士官で作家だったピエール・ロチも『日本秋景』(1889年/市川裕見子訳・中央公論新社)で日光に一章をあて、森の中の社殿を〈想像を絶する壮麗さ〉〈おとぎの国のそれのよう〉と表現した。宇都宮までは鉄道で、その先は人力車で日光に向かったロチは街道の杉並木にも心を奪われ、その木漏れ日をうす暗い教会のステンドグラスから入る光にたとえている。
後に各国大使館の別荘が中禅寺湖畔に次々建ったのはこうした旅行記の影響があったかもしれない。
一転、同じ日光が舞台でも、三輪太郎『大黒島(だいこくじま)』(2012年/講談社)は企(たくら)みに満ちた現代小説だ。
語り手の「私」は30代で銀行員を辞め、大学院で学び直して得度。中禅寺湖に浮かぶ島の大黒天堂に僧侶として赴任した……と書いてはみたが、中禅寺湖に大黒島なんて島は存在しない。しかし江戸時代には大奥の、日露戦争後は陸軍参謀本部の庇護(ひご)を受けていたという大黒島の歴史のまことしやかなこと!
島を訪ねてきた元同僚に〈おまえの仲介で、神仏の力を借りたい〉と懇願された「私」は困惑するが、その先は……。現代人と神仏の関係を問い、日光の歴史にも切りこんだ意欲作。旅行者が見たキラキラな日光とはまた別の世界である。
日光や那須と並んで、近年観光地として人気があるのが巴波(うずま)川の舟運で栄えた栃木市だ。山本有三はこの町の出身。『路傍の石』(1947年/新潮文庫)は明治期のこの町からはじまる物語である。
高等小学校に通う愛川吾一は成績優秀な少年だったが、家計は苦しく〈今に見ていろ、おれはきっと、中学へ行ってみせるぞ〉という夢はかないそうもない。そして彼は無謀な行動に出る。友達に見えを張って鉄橋の枕木にぶら下がるのだ。
「進学の件でヤケになったか」と考えた担任の次野先生や地元の名士が学資の援助に動き出すも、頑迷な父は首を縦にふらず、彼は呉服屋へ奉公に行くしかなかった。
じつは戦争で中断を余儀なくされた不運な作品。吾一はこのあと上京して夜学に通うが、彼の成長後の姿は十分に描かれなかった。それでも教育の力を信じた地方都市の人々の姿がここには刻印されている。
栃木は雷が多い県で、宇都宮市には雷都の別名もある。表題に「雷」を冠した立松和平『遠雷』(1980年/河出文庫)は宇都宮市出身の作家による異色の青春小説だ。
舞台はかつての水田地帯。高度経済成長後、住宅団地や工業団地に田畑を売った農家が離農する中、作者が主人公に選んだのは、時代に抗してビニールハウスのトマト栽培に夢をかける23歳の若者だった。
農村の共同体が失われ、バラバラになる家族。変わりゆく風景と、赤い電球のように実をつけるトマト。クルマを乗り回し、〈モーテルいくべ〉と見合い相手を誘っちゃう主人公の満夫は、日本文学らしからぬ北関東ボーイの面目躍如。この小説が出たときの衝撃は大きかった。
栃木の近代史を語る上で無視できないのは足尾鉱毒事件である。
荒畑寒村『谷中村滅亡史』(1907年/岩波文庫)は一度は読んで損のない激辛の檄文(げきぶん)だ。が、歴史小説として出色なのは、城山三郎の名を一躍知らしめた『辛酸』(1962年/角川文庫)だろう。晩年の田中正造(佐野市出身)の片腕として働いた青年・宗三郎を視点人物に、物語は最後まで谷中村に残った十数戸の闘いをリアルに描く。
足尾鉱毒事件は負の歴史である。しかし、渡良瀬遊水地に谷中村の遺跡を保存する活動は続けられており、国家権力と闘った人々の記録は今も輝きを放つ。近代の光と影が栃木には凝縮されているようだ。=朝日新聞2022年6月4日掲載