六月末に他界する一週間ほど前、小田嶋隆に会った。これが最後になるとわかっていたのだろうが、これまでと同じように「あれっておかしいよね」「あいつってこうだと思わないか」といたずらっぽく笑っていた。「いや、こうでしょう」と返せば、身を乗り出してきた。
一昨年、小田嶋のTwitterを厳選してインタビューなどを加えた『災間(さいかん)の唄』の編者を務めたこともあり、付き合いを重ねてきたが、事の多少を問わず、そこにある差異や隙間に食らいつき、分析を企(たくら)む人だった。
「これってこういうことでしょ」という見立てが万人にフィットする時と、ポツンと孤立する時が極端だったが、本人にとってはどう転がろうと構わず、自分の視界に入るものを調理し続けていた。この一〇年ほど、彼の言説がことさら政治に厳しく向かったのは、だらしなく放置される政治家の言動をさすがに見過ごせなかったのだろう。
亡くなる直前に刊行されたのが、初となる小説集。あとがきに「もっと早い時期に書いていればよかったなあ」とあるので、この本がどう位置付けられるのかを自覚していたはず。
東京の街の記憶、そして、その物語の中で動き回る人々を綴(つづ)るショートストーリーには小田嶋の存在も滲(にじ)むが、はっきりとした輪郭にはならない。
「われわれは、『おとな』を信頼していた。若干舐(な)めていたと言っても良い」「恥ずかしい時代には、恥ずかしい友だちがいる」。ふとした一言を読み、そこから広がる光景があるが、それは人それぞれ違う。序文に、「街の中に置かれている人間は、もともと断片的な存在なのだから」という小田嶋の言葉がある。
そこら辺を歩いている人の多くは、自分とは接触しない。あちらもこちらを気にはしない。向こう側の歩道を歩いている人に声をかけようと思ったら、車の音にかき消されてしまい、やがて見えなくなってしまうように、小田嶋自身の足跡と重ね合わせるように読むと寂しい。=朝日新聞2022年8月13日掲載
◇
イースト・プレス・1650円=3刷1万4千部。6月刊。「ツイッターで著者の言葉を羅針盤的に見ていて、死去でその不在の大きさに気がついた人が多かった」と担当者。