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「よみがえる与謝野晶子の源氏物語」 上質な推理小説 読むような興奮 朝日新聞書評

評者: 澤田瞳子 / 朝⽇新聞掲載:2022年09月03日
よみがえる与謝野晶子の源氏物語 著者:神野藤 昭夫 出版社:花鳥社 ジャンル:日本の小説・文学

ISBN: 9784909832580
発売⽇: 2022/07/15
サイズ: 21cm/462p

「よみがえる与謝野晶子の源氏物語」 [著]神野藤昭夫

 与謝野晶子ほど、断片的なイメージが独り歩きしている作家は珍しいかもしれない。歌集『みだれ髪』に見られる官能、「君死にたまふことなかれ」に漂う強靱(きょうじん)な意志。本作はそんな彼女の教養の中核を成した作品は源氏物語であると喝破した上で、晶子が挑んだその訳業の実像に迫る学術書。
 とはいえ「本書を大きく、そういう旅の記として、書くことにした」と序文にある通り、著者の資料分析や考証を読者が共に追いかける記述は、学術書という定義を越え、上質な推理小説を読むに似た興奮を与える。晶子と源氏物語に関する知識をただ得るだけではなく、国文学・書誌学の研究手法を追体験できる、一粒で二度おいしい得難い書籍なのだ。
 晶子は生涯に2種の源氏物語訳書を刊行する一方で、関東大震災の折、未刊の「源氏物語講義」の原稿数千枚を焼失させている。現在、たった1枚だけ残されているその自筆原稿を精読し、他の史料との比較検討によって、「源氏物語講義」の全容に迫る手法は鮮やかで、国文学に馴染(なじ)みのない読者をもあっという間に知識の旅へと拉致してしまうに違いない。あるいは晶子の翻訳に対する姿勢を分析するべく、その著作を原稿用紙枚数で比較し、あるいは刊行書籍の書誌情報を図の形で比較する。パリに出かけた際には晶子とその夫・寛が一時滞在したアパートを探し求め、現地に詳しい友人の意見まで求める。導き出された結論もさることながら、そこに至るまでの丹念かつ真摯(しんし)な手法に接することで、我々は一つの知が導き出される経緯とそのエネルギーを目の当たりにし得る。そしてあらゆる研究が今なお進化し続けている事実と学問の喜びを、筆者とともに追体験できるはずだ。
 少女時代に源氏物語と出会った晶子は、2作目の全訳「新新訳源氏物語」全6巻の刊行からわずか8か月後に脳溢血(いっけつ)で倒れ、翌々年に死去する。筆者の緻密(ちみつ)な考証によって、我々は晶子の生涯が文字通り源氏物語と共にあったことを思い知らされるが、一方で本書は本邦の源氏物語の受容史までをその射程に収めている。
 「新新訳源氏物語」は晶子の没後、様々な出版社から繰り返し刊行され、現在は角川文庫(『全訳源氏物語』)などで入手可能。晶子の著作権が切れた今日では、インターネット電子図書館・青空文庫にも掲載されている。つまり我々は今なお、晶子の源氏物語を間近にし続けているのだ。
 今年は晶子没後80年。その節目の年に相応(ふさわ)しい一冊である。
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かんのとう・あきお 1943年生まれ。跡見学園女子大名誉教授。著書に『散逸した物語世界と物語史』(角川源義賞)、『知られざる王朝物語の発見』。共編著に『中世王朝物語を学ぶ人のために』など。