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国葬を考える 変わる共同体、弔いの意義は 国立歴史民俗博物館副館長・山田慎也

1967年10月31日に行われた吉田茂元首相の国葬=東京都千代田区の日本武道館

 現在、安倍晋三元首相の国葬の是非について議論がなされている。国葬とは一体何なのであろう。かつて国葬の法制は1926年の国葬令(1947年失効)があり、特定の皇族以外は、特旨国葬といい、国家への功績を讃(たた)え、天皇から特別の旨を持って葬儀を賜(たま)う形式であった。
 宮間純一『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』は、国葬の成立過程とその実態を歴史学的に丹念に跡づけている。1878年の大久保利通、そして実質的に初の国葬とされる1883年の岩倉具視で体制が整い、1891年の三条実美の時、政府は「国葬」と表現し、天皇の決定、勅令の手続きが定まったという。
 つまり国葬は国家に功績ある者を天皇が功臣として位置づけ、マスメディアをも介して広く国民に認識させるものであった。そこでは葬送儀礼の中心的な儀礼であった葬列に、国家の実力装置である軍を動員し、国民に見せることを意識し、歌舞音曲の停止など国民に服喪も強制したのである。

組織統合の機能

 さて国葬は日本だけでなく、国民国家においては、ナショナリズム発揚のための重要な装置である。粟津賢太『記憶と追悼の宗教社会学 戦没者祭祀(さいし)の成立と変容』は、国家が国民の死を精巧に捉えて正当化し、人々を凝集させるナショナリズムが構築されていく様相を、戦没者のモニュメントや追悼儀礼を通して考察している。国民国家のナショナリズムの核が、戦争における死についての共同の追憶にあると指摘する。確かに戦没者は国葬だけでなく、市町村葬をもってその死が顕彰されてきたのであり、葬列の軍隊や弔砲など、軍の積極的関与は様々な国家で見られる。

 こうした葬送儀礼による組織統合の機能は、国家だけでなく会社や学校などの近代に成立した組織でも積極的に利用していった。中牧弘允編『社葬の経営人類学』では、日本の近代化過程で、社葬の成立と展開を経営人類学の視点から明らかにした、唯一といえる研究書である。社葬は世界の中でも特に日本で発達した儀礼で、営利を目的とした組織が共同体的な要素を持って発展した日本特有のものであったことを考察した。
 戦後、社葬は最も隆盛し、それにつれて組織のための儀礼として純化し、通常の葬儀の主催者が喪主であるのに対し、社葬の主催者である葬儀委員長を喪主と同位置にする構造を作り出した。そのひとつが葬儀委員長と喪主の遺骨授受の儀礼であり、社葬の間だけ葬儀委員長を遺骨の保持者とする趣旨である。葬送儀礼は、死者の身体を前に、肉体を超越した人格を新たな存在として位置づけ、残された生者と改めて関係を取り結ぶのが基本的構造であり、社葬の場合、重要な要素である死者の身体がないため、この儀礼により十全な葬儀に近づけようとした。さらに葬儀委員長は喪主に先んじて焼香をするなど、組織による組織のための葬儀となり、吉田茂元首相の国葬も同様であった。

「しない」選択も

 だが、1990年代以降、葬儀の形は大きく変わってきた。山田慎也・土居浩編著『無縁社会の葬儀と墓 死者との過去・現在・未来』(吉川弘文館・4180円)では、葬儀の小規模化、簡略化が進み、葬儀をしないことも選択肢のひとつとなり、また身寄りのない誰からも弔われない死者も増えていることが指摘されている。
 こうした変化の中で、改めて葬儀の意義が問われ、コストにも敏感になっており、それゆえ国民が納得する根拠と理由を政府は提示する必要がある。さらにいえば、かつて国葬は主権者である天皇の命によって行われたが、その制度を踏まえると、現代は主権者である国民の合意が必要とも思えるのである。=朝日新聞2022年9月17日掲載