松井さんが初めて書いた長編ミステリーは2002年の『非道、行(ぎょう)ずべからず』。歌舞伎ミステリーの金字塔、戸板康二の「中村雅楽」シリーズのような作品を望まれ、3作にわたり、江戸後期の芸道に生きる者たちの間で起きる事件を描いた。
「江戸3部作を完結して次にどの時代を採ろうかと思ったとき、リーマン・ショック後の不況下の世相が世界恐慌後の昭和初期のような感じがしまして。昭和5(1930)年を起点に書き始めたんです」
完結作『愚者の階梯』は昭和10年に来日した「満州国」皇帝・溥儀(ふぎ)の歌舞伎観劇から始まる。上演された「勧進帳」のせりふをめぐり、国粋主義者が「不敬に当たる」と糾弾。歌舞伎の殿堂・木挽(こびき)座に脅迫状が届き、重役が舞台装置で首をつった姿で発見される。
劇場の構造や装置を巧みに用いたトリックはシリーズ共通の特徴。歌舞伎の企画や制作に長くかかわった松井さんの面目躍如だ。
「劇場にあるものを使った事件は思いつくのですが、うまくいくのかとハラハラしながら書いてます。あまり決めこむと人間の造形が立ち上がってこないから、登場人物を動くがままに転がして、なんとか収める。毎回スリリングでした」
確かに登場人物たちはみな個性的だ。3部作を通して探偵役の桜木治郎は江戸歌舞伎の狂言作者の末裔(まつえい)で大学講師、歌舞伎界の「女帝」として君臨する名優・六代目沢之丞、その孫で美貌(びぼう)の五代目宇源次――。なによりも大きな印象を残すのが治郎の妻の従妹(いとこ)・澪子(みおこ)だ。第1作でモガ(モダンガール)よろしく登場し、左翼思想にかぶれたかと思ったら、次作では「満州」へ向かう青年皇軍兵士にシンパシーを抱く。本作では新興芸能として勢いを増す映画界に身を投じる。古いしきたりの歌舞伎界に対する若者世代の思いを代弁するかのような存在だ。
「テレビからネットへとメディアの潮流が変わっているように、当時もメディアの変化により芸能のあり方も変わっていった。澪子は、歌舞伎にくわしくない読者への誘導役として登場させたのですが、作者の手を離れて勝手に成長してくれましたね」
3部作は昭和11年の二・二六事件の「前夜」で幕を閉じる。ここで終えたのはなぜなのだろう。
「本作に関していえば、日本学術会議の任命問題があって。思い浮かんだのが美濃部さんの事件でした」
昭和10年の国会で、法曹界では常識だった美濃部達吉の「天皇機関説」を軍人出身の議員が「不敬」と糾弾、美濃部は反論したものの、世論は許さなかった。
「反体制ではなく、当時の法体系の権威のような人が犯罪者のように16時間にわたり尋問を受けた。インテリも民衆を説得できないまま、民意が大きく右に振れた。ネット時代のいま、振れ幅はより大きくなっています。日本が後戻りできないまでに振れてしまったのはどの時点だったのか。それを知りたくて3部作を書いてきた気がします」(野波健祐)=朝日新聞2022年11月2日掲載