個人的におもろいのは女の子
――すでに文筆家としてはエッセイ『イルカも泳ぐわい。』でデビューされていますが、今回の『これはちゃうか』は初の小説集ですね。エッセイと小説で取り組み方に違いはありましたか。
全然違いましたね。エッセイより小説の方が自分をさらけ出した感じがしました。エッセイやったら、言うても今月あったことから書いたりするやないですか。でも小説は引き出しの奥を探っていくというか。ああ、自分はここを結構大事にしてるんや……とか、書きながら気づかされたり。もうちょっと、自分とは距離を離したものを書けると思ってたんですけど、驕りでしたね。自分の範囲でしか書けませんでした。
――収録された6篇のうち、「了見の餅」「イトコ」「最終日」は、女の子2人が主な登場人物。女の子同士の、遠慮なくボケたり、突っ込んだり、スルーしたりする心地よい攻防が描かれていますが、加納さんにとって女友達とはどういう存在ですか。
女友達に対しては、小さいころからずっと「もっと遊ぼうや」って思ってて。それは時間的なことじゃなくて、もう一段(上に、深く)行こうやってことなんです。それをずっと考えてたら芸人になってしまった、みたいなとこあります(笑)。
――それは、「女」友達だからこその感情なんですか?
異性にも仲のいいやつはいるけど、それは「芸人仲間」って感じがします。友達っていうと、私のなかでは女性ですね。なんでやろ……。たぶん、女の子の方が興味があるんですよね。人間として。作品の面白さについては男女関係ないんですけど、個人的に、人間としておもろい思ってるのは女の子やなあ。
――「最終日」は、イベントの最終日オタクとしてSNSを配信する「私」が主人公です。そんな「私」に対して同級生・雨宮さんが「そういう設定でやっているんだね」と強烈な一言を放つシーンがあってシビレたのですが、この短篇集は全編を通して「設定を演じている人」が登場しますね。
芸人なんか特にそうやと思うんですけど、自分の作ったキャラに振り回されている奴って結構おるなあと思って。この子そんなずっと毒吐いてたっけ、2年前そんなギャルちゃうかったやん、とか。
それは自分にも多かれ少なかれ、あります。少し前に煙草止めたんですけど、それまでは本番まで喫煙所行ってりゃ、黙っててもカッコついたんですね。でも、今は楽屋で喋らな間(ま)もたへん。禁煙後の自分が初対面の後輩からしてみたら、私は気さくな先輩になるわけで……。人間って、そういうのに振り回されたり、助けられたりしてるよな、って考えてたのが小説に出てきたんやと思います。
でも私、男でそういうのはキモッって思うのに、女の子やったら、「かわいいな~やってもうてるな~」ってなるんです。女の子に甘いんですよね、女子高出身やからかな(笑)。
コンビやなあ、って思う瞬間
――「宵」は、映画サークルで撮った作品の一部が消えてしまう、というお話です。監督志望だった正志(まさし)がDVDを借りるとき、無意識に自分では撮りようがないスペクタクル映画を借りてしまう…というところがリアルでした。
大学時代、映画サークルだったので、そういう自分の才能に対する失望とか、諦めみたいなのは、当時の周りの雰囲気を思い出しながら書きました。自分が脚本と監督をやった作品で、いっぱい友達に手伝ってもらって、役者さんも呼んできて、でもいざ編集で繋いでみたら「あれ、これおもんないな」ってなって……。あの時は、「このデータ、全部消えたことにならへんかな」って思いましたね。
――それが「宵」につながるんですね(笑)。加納さんもお笑いに対して、ここには到達できない、と自分に失望することはありますか?
「この賞」とか「この番組」とか、明確な到達点があるわけじゃなくて、もっと細かいところで日々ありますね。例えば、コントでこの設定やったら演技力めっちゃいるから、ちょっとうちらではできへんな、とか。ほかの人の漫才見てて、ああー、こういうのやりたいなあって思ったりとか。やりたいこと、ほかに100個くらいあるので、そういう「できへんなあ」も日々流れていきますけどね。
でもある日、突然舞台上でクリアできることもあります。お客さんの前でやったとき、ホン(脚本)の段階では10と思ってた笑いが20になったり。そういうとき、コンビやなあって思いますね。すごく。自分の脳みその中で考えているときは独りよがりやけど、自分の手離れたときに、相方とお客さんの力でこうやって爆発することもあるんやなあって。
――それはたまらない瞬間ですね。「宵」が映画サークルという現実的な舞台設定である一方、「ファシマーラの女」は、駅が生えてくるファシマーラという町から出たことのない女の人の不思議なお話です。着想のきっかけは。
私、ずっと「地元愛ってなんなん?」って思ってたんですよね。私は大阪生まれ大阪育ちなんですけど、周りが「地元大好き」ってなってることに違和感を覚えて生きてきて。20代の頃はとくに、大阪に対して何の感情もなかった。だから、地元愛のある人に興味があって。ほかの場所と比べてここがいい、と思ってるんじゃなくて、「ここがいいと思っている自分」としてしか生きられない人を書いてみました。今は地元のこと、半周回って好きなターンに入ってるんですけどね。
――最後に収録されている「カーテンの頃」は、両親を失くした男子中学生と、「にしもん」というおっさんが同居するお話。ほかの作品とは違った優しさや切なさがありますね。
このにしもんにはモデルがいまして。うちの親がとにかく友達が多くて、いろんなおっさん・おばちゃんが日夜、家に遊びに来てたんですね。彼らの集合体が「にしもん」なんです。その大人たちがぽろっと言ったこととか、やったことが、知らず知らずのうちに自分を楽に生きさせてくれたなって思うことがあって。
別に、とくに名言を言ったとかじゃないんです。たとえば、「さっき言ってたこと、意味わからへんので、もう一回言ってもらっていいですか」って、大人同士の会話でなかなか言えない。でも、あの時、おっさんそんなん言うてたな、っていう思い出があると、言えたりする。モヤモヤしてるんやったら、その感情持って帰らんとその場で聞いたらええやん、っていう。ほかにも「うわ、このおっちゃん、家族より先におかず食うやん」みたいな厚かましさとか(笑)。みんなに当てはまるかはわからないけど、少なくとも私は助かったなあ、と思い返してたら「にしもん」が出来ました。
小説は待ってくれる
――小説を書いてみて、お笑いにおける脚本作りとの違いはありましたか?
自分もそうですし、劇場のお客さんもそうなんですけど、お笑いを求めるときの精神って短気なんですよ。「はよ笑かしてもらわな」みたいな。だから、つかみや前振りはなるべく早く出す。でも、小説は待ってもらえるんですよね。最初の2ページずっと景色のことでもいいわけじゃないですか。いや、あかんかな?(笑)。その感覚が違いました。どっちも違った楽しさですけど。
――なるほど。今回の短篇集を書いてみて、又吉直樹さんのようなお笑い芸人で小説家でもある方の、作品に対する受け止め方も変わりましたか?
改めてすごさがわかりましたね。又吉さんの作品は『火花』も『劇場』も3度ずつくらい読んでるんですけど、読むたびに、「すごすぎ!ムリ!」ってなります(笑)。でもこれは、お笑いもそうなんですよ。皆さんのすごいコントとか見るたびに「ぐぉー、おもろー、もうムリー」ってなるんで、そこは日々乗り越えながらやってます。
――『これはちゃうか』というタイトルにはどんな思いを込めましたか。
いやぁ~、「初小説集」とか、ちょっと恥ずかしいじゃないですか。ちょっと、そんなやめてな、じっくり評価とかせんといてな、っていう。1回出して、「これは……ちゃうか」ってすぐ引っ込められる感じで。私の生き方のせこさが凝縮されたタイトルです(笑)。
――そんな謙遜しなくても! 加納さんにしか書けない斬新な短篇集だと思いました。今後も執筆活動は続くのでしょうか。
お声かけていただけたら、また書きたいです。小説書くの、しんどいですけど、めっちゃ楽しいです!