江南亜美子(書評家)
(1)ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)(関口涼子著、講談社・1760円)
(2)水平線(滝口悠生著、新潮社・2750円)
(3)さすらう地(キム・スム著、岡裕美訳、新泉社・2530円)
大国の侵攻により命を奪われ、故郷を追われた人々に胸を痛めた本年の、印象深い三冊。①はベイルートを訪れた著者が、出会った人や料理を通じて街とその歴史を考察。食の話には複数の戦争の記憶がちりばめられている。破壊の記憶はどう伝承されるか。しなやかな批評性が響く。
②は小説ならではのマジカルな設定と語りで、史実の重みをぐっと際立たせてみせた。太平洋戦争末期、住民が強制疎開をさせられた硫黄島。土地を奪われた戦争体験世代と、現代を生きる兄妹が時空間を超越して交信し、死者たちの想(おも)いを追体験するのだ。
③は1930年代に荒れ地へ強制移送された朝鮮人の嘆きと苦しみを、貨車に乗り合わせた人々の会話形式で描く小説。虚構化された事実が重い。
金原ひとみ(作家)
(1)ミトンとふびん(吉本ばなな著、新潮社・1760円)
(2)すべての月、すべての年 ルシア・ベルリン作品集(ルシア・ベルリン著、岸本佐知子訳、講談社・2640円)
(3)ベイルート961時間(とそれに伴う321皿の料理)(関口涼子著、講談社・1760円)
①ページをめくりながら心をめくられるかのようで、むき出しのまま物語の中に飛び込むような、初めての読書体験だった。読むうち立ち現れてきた、自分も知らなかった自分自身を、今も私は大切に思っている。②情熱的な登場人物が、飾らない言葉で淡々と描写されているが、全体には暖かく安定した視点が張り巡らされている。誰かに相談したいと思ったとき、本書を開けばきっと誰よりも芳醇(ほうじゅん)な答えを得られるだろう。③料理、言葉、生活、最小限のモチーフで、世界の全てが語り尽くされているかのようだ。本を開いた瞬間、そこに住む人々の匂いが、食べ物の匂いが、長きに渡る内戦の匂いが、蒸されたせいろから漂うように溢(あふ)れ出す。奇跡的と言いたくなるバランス、技術、濃度で構成された一冊。
柄谷行人(哲学者)
(1)宗教の行方 現代のための宗教十二講(八木誠一著、法蔵館・3520円)
(2)旧約聖書がわかる本 〈対話〉でひもとくその世界(並木浩一・奥泉光著、河出新書・1397円)
(3)ヤバい神 不都合な記事による旧約聖書入門(トーマス・レーマー著、白田浩一訳、新教出版社・2420円)
①は、斬新で多角的な視点による、ほかに類を見ない宗教論。仏教とキリスト教を共に論じているところも興味深いが、いわゆる比較宗教学とは一線を画する。
②では、『古代ユダヤ教』でヴェーバーも指摘した、権力や国家に抵抗し、自由で平等な共同体をつくろうとする、古代イスラエルの民の精神が鮮やかに描き出される。盛り沢山(だくさん)で、楽しい内容。並木による独創的な「ヨブ記」論にも注目したい。
③は、旧約聖書の神の不可解な面にあえて焦点を合わせ、その文脈を解き明かすことで謎を解明しようとする。
以上、いずれも聖書学者による仕事である。しかし、私にとって、これらは神学ではなく、「交換様式D」を示すものであった。
神林龍(一橋大学教授)
(1)中小企業金融の経済学 金融機関の役割 政府の役割(植杉威一郎著、日経BP・4400円)
(2)性と芸術(会田誠著、幻冬舎・1760円)
(3)女子サッカー選手のエスノグラフィー 不安定な競技実践形態を生きる(申恩真著、春風社・4400円)
経済書の中では①が群を抜いている。政府系金融機関の役割が民間の事業を助けているのかどうかがおもな分析対象だ。銀行と事業者の金融取引に限定された内容で書評欄では取り上げにくいが、ゾンビ企業の語を使うなら必読の書だ。
経済書以外では、椹木野衣氏の当欄の書評もあわせて②を選ぶ。もともと饒舌(じょうぜつ)な作家だが、作家自身に自分の作品にかんしてここまで書かせる社会をどう考えるかという問いが思い浮かんだ。
今年は何といってもワールドカップ。日本代表の活躍を光とすれば、③にまとめられた女子プロサッカー選手の苦悩は陰。プロであるために必要なのは個人の姿勢だけではなく、社会での位置づけであることは一般の労働者でも同様だろう。
澤田瞳子(小説家)
(1)人物で学ぶ日本古代史1~3(新古代史の会編、吉川弘文館・各2090円)
(2)この父ありて 娘たちの歳月(梯久美子著、文芸春秋・1980円)
(3)地図と拳(小川哲著、集英社・2420円)
社会や個人のあり方を考えさせられる書籍に多く接した1年。①古代史上の有名・無名の人物約120名を、第一線の研究者たちが最新の研究成果に基づいて紹介する。古(いにしえ)の人々を通じて歴史を知ることで、我々は現在そして未来について学び得る。「知」のきっかけを惜しみなく提示するシリーズ。②9人の女性作家と父親の関わりを通じ、女性がものを書く意義と彼女たちの生きた時代を多層的に織りなすノンフィクション。その多彩な生き様の奥に存在する感情は強靱(きょうじん)かつ普遍的で、読者の胸を強く貫く。③歴史上、十数年だけ存在した、旧満州国。様々な思惑を抱いてかの地に交錯する人々を通じ、国家と戦争を俯瞰(ふかん)的に描く。過去を描きながら、現代の我々の胸倉を摑(つか)んで離さぬ物語である。
椹木野衣(美術批評家)
(1)活動芸術論(卯城竜太著、イースト・プレス・3520円)
(2)戦後日本の抽象美術 具体・前衛書・アンフォルメル(尾﨑信一郎著、思文閣出版・8250円)
(3)画廊と作家たち(塚本豊子著、新潮社・1650円)
秋から異例の書評委員再任となり、見逃しも多いかもしれない。そんななか①の読み応えは圧巻。みずから属する美術家グループと、社会から孤立していた過去の来歴を行きつ戻りつしながら、次元はどんどん桁上げされ、ついには惑星の次元に達する。②は「生涯一学芸員」を座右の銘とする著者が35年務め定年を迎えた「天職」の総決算。新天地となった鳥取県での新美術館整備事業はウォーホルの収蔵をめぐってざわついているが、縁の下にどれだけの蓄積があるか。③も別の意味で天職をめぐる一冊。バブル直前に独力でギャラリーを開いた画廊主がコロナ禍で場を閉める直前までの約37年を回顧する。①や②のような大著ではないが、ささやかな記述のなかに時代を読み解く鍵が眠っている。