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【谷原章介店長のオススメ】山﨑努「『俳優』の肩ごしに」 演技に正解はない 壁を超えていくための思考に共感

谷原章介さん=松嶋愛撮影

生活のなかにあった演劇的原体験

 鋭い眼光、凛とした佇まい――。深く尊敬する演技派俳優・山﨑努さんが、ご自身の来し方を振り返るエッセイを上梓されました。「『俳優』の肩ごしに」(日本経済新聞出版)。

 俳優の大先輩である山﨑さん。傘寿を越えた現在も変わらぬ存在感を放ち、畏敬の念を抱いております。山﨑さんがTwitterで、ご自身の連載の書籍化を紹介しておられ、すぐさま手に取りました。

 世間を震撼させた「二・二六事件」の起きた1936年、千葉県松戸に生まれた山﨑さん。お父さまは友禅染の職人をされていたそうです。幼少期を回顧する章では、ご自身の一人称を「ツトムくん」として書き綴ります。疎開、空襲警報、防空壕――そんな言葉の飛び交う不穏な時代を過ごしながらも、「ツトムくん」の思い出は、鮮やかに、ときにユーモラスに描かれ、映像が浮かび上がってくるようです。とりわけ僕が忘れられないのは、なんといっても、兵隊にとられていたお父さまの復員の場面。山﨑さんにとって、演劇的原体験となった思い出です。

 終戦。
 父が応召した戦地は「チシマ」と聞かされていた。千島列島のどの島だったのかわからないが、とにかく無事に帰ってきた。二年半後に急死するのだから無事ではなくかなり衰弱していたのだろうが、ともかく復員してきた。
 そのときのツトム(八歳)のリアクションが今でも忘れられない。ざんきにたえない。
(中略)
「おめえんとこの、おとっつぁん、けえってきたどー」という昂った叫び声を聞いて、ツトムは家の中からハダシでとび出した。細い山道にいが栗が落ちている。いつもおそるおそる通る湿った粘土の窪地も一気に駆け抜ける。おとうちゃんのいる家までは走って五分くらいだったろうか。――走りながらツトムは、これウソだな、おれ、おしばいしてるな、と思う。母や周りの人たちは父が帰ったことに僕が喜ぶと期待しているはずだ。それに応えなければいけないと走っている――。(本書より)

「僕は演技している」。そう山﨑さんが初めて悟った、たいへん重要な瞬間です。8歳の少年が複雑な自我を持っておられることにまず驚かされますが、あるいは、子どもなら誰しも、多少なりとも備わっている自我であるのかも知れません。自分の感情なのか、それとも他者を意識して表層で行っていることなのか、それが曖昧なまままざり合ってただひたすら駆けてゆく。

 大人だって同じです。いかなる人も、どこかお芝居をしているのだと僕は思います。だからこそ、見る人によって、その人の「人物像」というものが微妙にずれていく。その場所に添った自分、相手に添った自分。いろんなペルソナを付け替えながら暮らしていると思います。「演じること」を生業とする者の端くれとしては、染みてくる言葉が随所にあります。山﨑さんの「役者としてのあり方」に、一つひとつ、深い感銘を受けます。

 演技に正解などない。演技は他人に教わるものではない、自分で創るものだ~(本書より)
 まあなんとかなるだろう。流れに身を任せるしかない。
(中略)
 俳優の演技もやはりどんぶらこなのだと思う。事前に綿密なプランを立ててもその狙い通りにはいかない。演出家がいる。相手役もいる。自分の心の動きも刻々変わる。つまり現場で生まれる瞬間の出来事に反応することが肝要なのである。(本書より)

 どんな思いで演技や作品と向き合っておられるのかが、真っ直ぐな筆致で綴られ、随所で胸を打たれます。たとえ予定調和の台詞、演出があったとしても、そこからどれだけ自由になれるのか。心の動きにどれだけ素直になれるのか。俳優ならば誰しもが直面するであろう壁を打破するための示唆を、山﨑さんは示して下さいます。

 山﨑さんは、再演をあまり好まないとか。「なぞること」にどこか嫌悪の念を抱いておられるのでしょう。僕も、なぞりたくないと思っています。映画やドラマであれば、本番は基本的に1回だけですが、舞台の場合は、そうはいきません。稽古を何十回、何百回と重ねたうえで、本番も何回も演じます。同じことをずっとやり続けるけれども、いかに前回の成功体験をなぞらずに、新鮮な気持ちで毎回臨むのかが問われます。

「毎回、突拍子もないアドリブを入れる」などというようなことではなく、内面の感情の動かし方、新たな発見をいかに見つけていくか。いかに自分が新鮮な気持ちでいるのか。それを、僕は大事にしていこうと考えています。

 僕のやりたかったのはただ一つ、整頓され練り上げられた演技以前にある「もやもや」した気持ちを表現したいということ。(本書より)

 言葉って縛られるじゃないですか。言葉に置換して表現すると、自分の中にあったものから、こぼれ落ちたり、色あせたりしてしまうことがままある。「言葉にならない」「言葉にできない」っていうのが、まさにそういうことです。本来、演技とは、ストーリーを喋って観客に伝えているようで、じつはそうでなく、台詞と台詞の「行間」を伝えているものだと僕は思います。同じ言葉でも、その強さ、タッチ、色合いで、語られていないことは端々からにじみ出てくる。それこそが、お芝居の大事な部分ではないでしょうか。相手が喋る時、受けているこちら側、喋っていない時にもドラマはあるのだと。

 仕事の合間に、お芝居を観に行って思うのは、「この役者さんは、自分を役に近づけて持っていこうとするのか、役を自分に持ってこようとするのか」。やり方考え方は人それぞれですが僕は前者でありたい。剥ぎ取って、剥ぎ取って、残ったものは何なのかを提示していきたい。

 50歳を迎え、この先、何本の作品に出演できるのか、時に考えます。2023年も舞台に立つことが叶ったら、ありがたい。それまでは、日常生活をきちんと暮らしていきたい。先日、末っ子の七五三を祝いました。我が子の最後の七五三。この時に覚えた特別な感慨も、ゆくゆくは俳優として血となり肉となるかも知れません。あと何年、何回、舞台に立てるのかわかりませんが、立ち続けたい。そう強く思います。

あわせて読みたい

 山﨑努さんの『俳優のノート』(文春文庫)もぜひ。舞台「リア王」の演技プランを緻密に綴っておられるドキュメント。黒澤明、伊丹十三の各氏との交友録も盛り込まれています。(構成・加賀直樹)