1. HOME
  2. コラム
  3. つんどく本を開く
  4. 物語に潜む作者の実感と経験 野口哲哉 ・現代美術家

物語に潜む作者の実感と経験 野口哲哉 ・現代美術家

画・野口哲哉

 いつもは絵を描いたり彫刻を作ったりしている僕は、あまり長い本を通読する習慣がない。そんな自分がそれでも書物に惹(ひ)かれ続けているのは、そこに作者の実感や経験を感じ取ることがあるからだ。

 学生時代に繰り返し読んだ、松本清張「真贋(しんがん)の森」(1958年発表、『黒地の絵 傑作短編集(二)』所収・新潮文庫・880円)を久しぶりに読んでみよう。

 清張といえば、圧迫感のある、しかし大衆向けの技巧的な作風で知られるが、この物語は技巧を超えた怨嗟(えんさ)の実感が渦巻いている。美術業界から締め出されていた男が、不条理な権威に復讐(ふくしゅう)を企てるという内容だが、興味深いのは復讐の計画や偽絵画の制作よりも多くの紙幅が、権威やアカデミズムに対する糾弾に割かれていることだ。

 僕には確信に近い想(おも)いがあるのだが、これは清張自身が物語の中で実感を吐露しているように感じられる。彼は純文学の世界から「中間小説」との色眼鏡を自分に向けてくる同時代の文豪にかなり複雑な想いを持っていたという。さて物語の主人公もまた、美術アカデミーのトップに君臨する同期の男に強烈な敵意を持って復讐の計画を練り上げてゆく。主人公が全てを託して「培養」してゆく贋作画家は、清張の周囲でまことしやかに噂(うわさ)されたゴーストライターたちの存在を彷彿(ほうふつ)とさせる。言うまでもなく文章は、「他人事」ではなく「自分事」になった時にはじめて、実感と迫真性が宿るはずだ。

 さて、以前読みかけだった一冊をこの機会に読了しよう。テア・オブレヒト『タイガーズ・ワイフ』(2012年刊、藤井光訳、新潮クレスト・ブックス・絶版)は内戦を逃れて難民となったセルビア出身の作家の意欲作だ。女性医師である主人公と、故人となった祖父、かつて祖父の口から語られた“不死身の男”の物語、そして戦争中に動物園から脱走した虎と、虎に魅入られた聾唖(ろうあ)の少女の境遇が、過去と現在の垣根を侵食しながら奇妙に絡み合う。その構成は少し粗削りだけど、僕の目にはとても新鮮で切実に映った。

 きっと、戦争も、祖父も、虎も、少女も、民族の混沌(こんとん)に生まれた作者の記憶から言葉を託されたモチーフだったのだろう。現実の混乱から生じた種が、物語となって芽吹いた一例だ。

 そうだ、最後に子供の頃に読んで印象に残っていたあの絵本をもう一度読んでみよう。エウゲーニー・M・ラチョフ絵『てぶくろ』(1965年刊、うちだりさこ訳、福音館書店・1100円)は、雪深い森に落ちている一つの手袋を巡る物語だ。最初に小さな鼠(ねずみ)がすみ着いて、次に蛙(かえる)が同居する。そして兎(うさぎ)が、狐(きつね)が、狼(おおかみ)が、猪(いのしし)が次々にルームシェアして、手袋は今にも張り裂けそうだ。しまいには巨大な熊が現れ、こんな掛け合いが始まる――。温かそうだな、俺も入れてくれよ。とんでもない、あなたの大きな体ではとても無理ですよ。いいや、俺はどうしても入りたいんだ。

 その刹那(せつな)、手袋を落とした猟師と思われる老人が戻ってきて、動物たちは森に四散してしまう。結末を保留して終わるこの物語が、実はウクライナの古い民話であり、手袋を国土に、動物を民族に見立てることで語られてきた、彼らの苦難の歴史であることに気が付いたのはつい最近の出来事だ。21世紀の大きな熊は再び手袋に興味を示し、ウクライナは戦争になった。

 昨今耳にした、「すべての神話や物語は人間の想像力が生み出したフィクションにすぎない」とする説に、僕は何一つ賛同できない。絵空事に見える神話や物語には、現実の種が埋め込まれているからだ。人の経験や実感は物語の姿を借りて、後世に教訓を残すための鎖となって連なっていく。その鎖はDNAの螺旋(らせん)構造のように、人々が生きる文明という肉体を複雑に形作っている。=朝日新聞2023年1月21日掲載